このコンテンツは、東京大学創立130周年記念事業の一環です このコンテンツは、東京大学創立130周年記念事業の一環です

東大農学部の歴史 東大農学部の歴史

戦前の風景

昭和の初めごろの一高の全景と建設中の農学部1号館昭和の初めごろの一高の全景と建設中の農学部1号館
震災後に建てられた一高のバラック校舎や建設中の農学部1号館が見える。農学部1号館は、昭和5年に竣工すると、地階、1階、2階の一部が、それまでバラック校舎にあった一高の事務室、教官室、文理科3年教室に利用され、一高の分館などと渡り廊下で結ばれた。本郷キャンパスの方にも、震災後に建てられた仮教室や新築(建設中)の建物が見える。写真は「第一高等学校六十年史」より。

一高の分館一高の分館(旧館)
農学部に移管された後は、農学部分館として使われた。外壁はピンク色だったという。「写真図説 嗚呼玉杯に花うけて 第一高等学校八十年史」より。

一高の明寮一高の明寮
農学部に移管された後は、家畜病院などに使われた。そのほか、一高の西寮、食堂、賄所なども利用されたが、東側の寮舎はグラウンド拡張のため、すべて取り壊された。「写真図説嗚呼玉杯に花うけて 第一高等学校八十年史」より。

農学部1号館屋上からの一高と現在の風景

昭和5年3月、完成間もない農学部1号館屋上より撮影した一高の全景(上)と同じ位置からほぼ同じ方角を撮影した現在の風景(下)。上の写真は「向陵誌」より。

竣工のころの農学部1号館

「東京帝国大学絵葉書書」10枚組の1枚(農学部2号館)その表紙「東京帝国大学絵葉書書」10枚組の1枚(農学部2号館)とその表紙

弥生移転のころの一高正門
弥生移転後2年近く農学部の正門として使われていた。3号館との位置関係により、現在の農学部の正門は若干東側に移った。

昭和12年ごろのキャンパス鳥瞰図
英文の大学案内(Tokyo Imperial University 1937)に綴じ込みのキャンパス鳥瞰図の農学部の部分。

駒場からの移転風景
水産学科の移転開始。昭和10年6月29日撮影。帝国大学新聞第584号より。

合格者発表の様子
2号館脇の掲示板。昭和11年3月19日。

御茶ノ水駅を出る帝大農学部前行バス
昭和12年6月1日より、午前7:30から9:30の間に運行され、1日千人以上の利用者があった。午後は、これまで通り、東京-巣鴨間のバスが利用された。

正門前の風景(昭和13年ごろ)と現在の風景

農正門前が舗装されたのは、昭和13年末のことである。それまでは、工事用トラックの出入りでぬかるみが酷かったという。

昭和13年五月祭(1)
五月祭には、駒場時代から講演、映画などの催しで参加していたが、弥生移転後は、本格的に学内公開を行ったという。

昭和13年五月祭(2)

昭和13年五月祭(3)

五月祭(昭和16年ごろ)昭和15年五月祭
平成15年度の教室公開の内容は以下の通り。(農学科)種子のトピック、果物の科学、遺伝と育種、現代の庭園都市計画、植物の病気害虫の驚異、時局と作物、家畜の効用、蚕皃と絹製品、(農業土木学科)灌漑排水、耕地整理、土地改良、農業機械、農業建築、農業電気、塩田、農村計画、実験、(林学科)林学一般、加工物、積雪防止、木材パルプ、熱帯林産物、炭焼、(農芸化学科)油脂、ビタミン、ホルモン、アミノ酸、陸海軍の食料品、その他の食料品等、大豆の利用、ナイロン及び各種繊維、各種の酒精飲料及び乳酸飲料、土壌と肥料、水耕法、畜産製品、(水産学科)鰮について、水族館、水産製品、(獣医学科)馬揚出腸運動、馬の生まれるまで、寄生虫、骨軟症、標本、馬体解剖。

体操風景
昭和13年5月2日より、毎日昼休みに農学部の1号館と2号館の間の空き地で、文部省体育研究所技師指導の下に体操が行われることになった。当時の記録に、正午のサイレンが鳴り講義を終えた学生が外に出て、拡声器から流れるラジオ体操の音楽に合わせて体操したとある。写真の左上には建設中の農学部3号館が見える。その前の木造の建物は仮事務室。

2号館西側
昭和13年ごろ。右端に「学内食堂」の案内板が見られる。当時、旧一高の木造の建物を利用した食堂があったが、近くに厩舎などがあったため「馬小屋食堂」などとも呼ばれていたようである。中央地区には第一、第二、第三(医学部)の3つの食堂があったが、「ザワザワした中央地区の食堂と違って、牧場や工事場の飯場のような」たたずまいであったという。

2号館廊下

図書室(昭和13年ごろ)

図書室図書室(昭和15年ごろ)

圃場での実習(昭和13年ごろ)
正面奧の建物は、工学部4号館と思われる。

講義風景(昭和15年ごろ)
現在の化学第1講義室。昭和40年代終わりごろまで、1階、2階吹き抜けの教室であった。

農芸化学実験(昭和16年ごろ)農芸化学実験(昭和15年ごろ)
実験に疲れて2号館屋上に出ると、富士も筑波も見渡せたという。

農学部の正門近く(昭和15年ごろ)
正門を入ったところから現在の弥生講堂の方に向かって撮影。左端が農学部1号館、その右に見える平屋の建物は旧一高校舎の動物学特別実験室。

グラウンドでの野球グラウンドでの野球
写真の左奥に農学部2号館、正面奧に分館が見える。下の写真とともに昭和15年ごろの撮影。野球の試合は、学年対抗などの形で行われた。野球は駒場農学校のころから盛んで、日本最初の野球の対抗試合は、明治15年の新橋倶楽部と駒場農学校の試合だったという(日本学生野球協会のページより)。「農学事始め」には、明治11年にキャッチボールで寄宿舎の窓ガラスを2枚を割り弁償させられた学生の話が出てくる。

新体制運動下での勤労奉仕新体制運動下での勤労奉仕
農学部1号館付近。文京ふるさと歴史館蔵。左の画像は「文京区史 巻四」より許可を得て転載(写真は光芸社提供とある)。


戦後の風景

昭和28年ごろの農学部3号館

昭和28年ごろの農学部2号館

昭和28年ごろの家畜病院(手前)と醗酵工場
醗酵工場と家畜病院は昭和27年に竣工した。

昭和29年五月祭の水産学科の企画
第五福竜丸事件の放射能マグロを五月祭の出し物にして話題をさらったという。「東京大学農学部水産学科の五十年」より。

昭和30年ごろの農学部2号館(左)と3号館(奥)昭和30年ごろの農学部2号館(左)と3号館(奥)

圃場昭和35年ごろの圃場

温室温室

農芸化学科図書室(昭和35年ごろ)
学部の図書館ができるまでは、学科で図書室をもつところがあった。農芸化学科図書室は、2号館2階の現在の教官会議室にあった。

第34回五月祭(1)昭和35年(第34回)五月祭(1)

第34回五月祭(2)昭和35年五月祭(2)

第34回五月祭(3)昭和35年五月祭(3)

昭和35年ごろの農学部食堂昭和35年ごろの農学部食堂
当時、本郷地区の食堂は、第一食堂、第二食堂、農学部食堂の3カ所であった。

昭和35年ごろの農学部生協売店昭和35年ごろの農学部生協売店

農学部食堂の改善運動農学部食堂の改善運動
狭くて暗かったという食堂の改善運動は長く続いたが、昭和45年に拡大・改装が実現した。「東大生協二十五年運動史」より許可を得て掲載。

池の蓮
1号館と2号館の間の池に咲く蓮の花。昭和40年ごろの撮影。

昭和40年ごろの陸橋付近
開通したころの陸橋(右端)の周辺。

昭和40年ごろの圃場
圃場の南東側から撮影したもの。正面左の高い建物はアルコール工場、その手前はバイオトロン。左端にわずかに見えるのが農学部4号館(4階建て)。

昭和42年ごろの農学部図書館前
右奧に向かう道は南門に通じていた。東京大学卒業アルバム1968年より(東京大学総合図書館蔵)。

フォークダンス(昭和42年ごろ)
東京大学卒業アルバム1968年より(東京大学総合図書館蔵)。

開館したころの農学部図書館内部

バイオトロンの人工気象室

農業工学科水利実験室

昭和43年(第42回)五月祭
東京大学卒業アルバム1969年より(東京大学総合図書館蔵)。

昭和43年ごろの陸橋付近
東京大学卒業アルバム1969年より(東京大学総合図書館蔵)。

昭和44年ごろの陸橋
東京大学卒業アルバム1970年より(東京大学総合図書館蔵)。

昭和44年ごろの1号館と2号館の間の池
東京大学卒業アルバム1970年より(東京大学総合図書館蔵)。

昭和44年ごろの農学部図書館前
右の平屋は林産製造実験室である。東京大学卒業アルバム1970年より(東京大学総合図書館蔵)。

昭和46年ごろの農学部3号館前
学生運動が盛んだったころがうかがえる。東京大学卒業アルバム1972年より(東京大学総合図書館蔵)。

昭和51年ころの農学部全景

正門前の風景(昭和54年ごろ)と現在の風景

上の写真は東京大学卒業アルバム1980年より。

南門付近(昭和57年ごろ)
東京大学卒業アルバム1983年より。

正面から見た農学部4号館(昭和59年ごろ)
「東京大学農学部農業工学科八十周年記念誌」より。

圃場から農学部4号館を望む(昭和61年ごろ)
東京大学卒業アルバム1987年より。


このコンテンツは、東京大学創立130周年記念事業の一環ですご意見等は、東京大学大学院農学生命科学研究科広報室までお願いします。
www-admin@www.a.u-tokyo.ac.jp