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東大農学部の歴史 東大農学部の歴史

農学部の拡充 - 東京帝国大学農学部

正8年、帝国大学令の改正により、各分科大学はそれぞれ学部となり、農科大学も東京帝国大学農学部となった。昭和10年には、第一高等学校との敷地交換により、農学校以来の所在地である駒場から現在のキャンパスに移転した。農学部1号館、2号館、3号館という、現在の農学部の主要な建物が次々に建築される一方、農場や果樹園、水産実験所などの附属施設が設置された。

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月日 できごと メモ
大正8年(1919年) 2月6日 帝国大学令改正(分科大学を廃して学部を置く)。法、医、工、文、理、農学部のほか経済学部を新設。東京帝国大学農科大学を東京帝国大学農学部と改称 学科課程の大きな変更点は以下の通りである。(1) 従来3学期制をとっていたものを、秋学期(9月11日〜翌年1月31日)、春学期(2月1日〜7月10日)の2学期制に変更した。ただし、この学期制は、大正9年5月に、学年歴を4月1日〜3月31日に改正したことに伴い、大正10年より、夏学期(4月1日〜10月31日)、冬学期(11月1日〜翌年3月31日)に変更された。これは、日付が若干異なるものの、現行の二学期制と同じである。(2) 授業科目を必修科目と選択科目に分けた。(3) 農科大学時代は、平常点数と試験点数を平均して学年点数としていたが、これを次のように改めた。「試験ハ各科目ニ就キ合格不合格を決ス、試験ノ成績ハ甲乙丙トシ甲乙ヲ合格トス。」すなわち、従来、実験、実習、演習などの点を平常点としてつけていたものをなくしたわけであるが、これは、実験、実習、演習などについても通常の講義科目と同様の採点法を適用したと言ってよいであろう。
この時点で、34講座(20種類)。農学科 12講座(農学第一、第二, 植物学, 植物病理学, 動物学・昆虫学・養蚕学第一、第二、第三, 園芸学, 農林物理学・気象学, 農政学・経済学第一、第二、農業工学)、農芸化学科 5講座(農芸化学・化学第一、第二,、第三, 地質学・土壌学, 農産製造学)、林学科 5講座(林学第一、第二、第三、第四, 森林利用学)、獣医学科 8講座(畜産学第一、第二, 家畜解剖学, 家畜生理学, 家畜内科学・家畜外科学第一、第二、第三, 家畜衛生学・家畜薬物学)、水産学科 4講座(水産学第一、第二、第三, 水産海洋学)。ただし、動物学昆虫学養蚕学第一講座、動物学昆虫学養蚕学第二講座、動物学昆虫学養蚕学第三講座、植物学講座、植物病理学講座、地質学土壌学講座、農林物理学気象学講座につい正式には農学部共通講座であった。
大正9年(1920年) 9月27日 農学部教授古在由直が総長に就任 公選制になってから2代目の総長であった。関東大震災後の復興、キャンパス移転などの問題に取り組み、大正14年、圧倒的多数で再選。昭和3年12月、病のため辞職。その年、名誉教授の称号が与えられた。
11月16日 東京帝国大学学位規則が制定され、従来の農学、獣医学、林学の各博士はすべて農学博士に一本化された 東京帝国大学が授与する学位を法学、医学、薬学、工学、文学、理学、農学、経済学の8種とした。
12月 駒場交友会が結成され、実科独立運動が始まる 文部省の実科廃止説の風評の中で、実科を本科と切り離しそれを独立させたいという気運が、実科生とその卒業生の間で次第に醸成されていた。彼らは、大正9年駒場交友会を広く結成して実科の独立を内外に訴えた。駒場交友会の発足に伴い、講農会がこれに併合された。
   
大正9年現在の建物配置図
明治36年より、敷地面積は17万9375坪に達していた。
大正10年(1921年) 2月22日 農学部卒業者の学士号を農学士に統一  
大正11年(1922年) 2月26日 農業教員養成所は農業学校教員の養成だけを目的とし、修業年限は3年になった 当時の農業教員養成所の教室 当時の農業教員養成所の教室

右側の建物と左奥の建物が農業教員養成所の教室である。右側の建物は、もともと事務所として使われていたものである。事務所は、明治30年の火事の後、東側のそれまで診察室だったところに移転した。左奥の建物は明治33年ごろまでは標本陳列所として利用され、左手前の建物は当時動物学が使用していたが、古くは賄所であった。大正12年2月に、写真中央奥に教室が建設され、さらに昭和の初めには、新しい教室3棟が、農学教室の西側に建設された(農業教員養成所の新しい教室の写真はこちら)。
3月26日 演習林用地として北海道庁より307万2600坪を有償移管  
9月4日 演習林用地として北海道庁より458万9400坪を有償移管  
9月 愛知演習林新設(愛知演習林用地として帝室林野管理局より406万3380坪を公債証書と交換)  
大正12年(1923年) 6月16日 台湾演習林熱帯樹木園敷地として民有地2万6330坪を購入  
9月1日 関東大震災 関東大震災の被害を受けた農学部の建物
関東大震災の被害を受けた農学部の建物
東京帝国大学五十年史によれば、「農学部は市外駒場に在り、建物は概ね木造なるを以て大なる被害はなかりき。又幸にして薬品の爆発に依る発火もかりき。」とあり、「農学部を除くの外、其の他諸学部に在りては授業の設備殆ど全滅に帰し」とある。全学的に大きな被害を受けた中で、農学部の被害は限られていたようである。上の写真の建物は、形状、間取りなどから、震災後取り壊された、開校以来の寄宿舎と推定される(明治10年の寄宿舎の建物図はこちら)。
大正13年(1924年) 9月 東京帝国大学と第一高等学校との間で敷地交換を調印 敷地交換の構想は、一高側の資料によれば、すでに明治24年にあったようであるが、本格的な交渉が開始されたのは大正10年であった。東京帝国大学が総合大学としてキャンパスを1カ所にまとめたいという要求と、一高の敷地が狭くなってきたという事情があったが、反対も多く、紆余曲折があった。とくに大正12年の関東大震災の発生とその復興を巡る議論の中でいったん宙に浮くことになる。しかしながら、東大側は、本郷キャンパスの復興計画で交換が急がれたこと、また一高側は、本館が震災による被害で爆破解体されるなどあって、最終的には同意がとられた。
大正14年(1925年) 3月10日 農業経済学科および農学科農業土木学専修設置 第一次世界大戦後の恐慌を契機に農村不況が深刻化し、そこで発生した諸問題の社会科学的解明や、それらに対する政策的対応等々をより強化する必要性から、農学科第二部より農業経済学科が新たに設置された。また、農業生産力基盤をいっそう充実させる必要性から、農学科農業土木学専修が設置され、独立したカリキュラムをもつようになった。
5月 箱根演習林設置 御料地の借り入れによるもので、短期間のうちに返地され、廃止された。
11月 富士演習林新設(演習林用地として山梨県南都留郡中野村の村有地等3万7285坪の寄付を受ける)  
大正15年(1926年) 3月31日 二宮果樹園新設 大正14年、15年、昭和5年の3回にわたり、計4.6ヘクタール(現在は3.97ヘクタール)の用地を購入、宅地跡、水田を転換して果樹園を造成した。用地の購入にあたっては、当時、東京に近く、しかもミカンの経済的栽培が可能であるという点が考慮された。昭和10年に吾妻村から二宮町になったが、それ以前は、吾妻果樹園と呼ばれていた。
なお、果樹園については、農科大学構内の土質が裁植に適さないことから、明治26年、神奈川県橘樹郡大師河原村(現川崎市)に1町4反歩の大師河原果樹園、さらに大師河原果樹園が水害を被ったため、明治32年には、東京府下荏原郡六郷村(現東京都大田区)に、新たに1町2反歩の六郷果樹園を設けたという記録がある。これらは、それぞれ、大正末、昭和の初めまで存続したようである。
二宮果樹園(昭和に入ってからの撮影
二宮果樹園(昭和に入ってからの撮影)
8月2日 本郷区本富士町の前田候爵邸敷地1万606余坪を本学敷地とし、農学部敷地4万坪および代々木演習林敷地1万1543坪を前田邸敷地として土地交換を実施 敷地交換に際しては、前田家より、西洋館、和館も大学に寄付された。補修された建物は懐徳館と名付けられ、本学の賓客を迎える建物として使用された。現在の懐徳館は、戦後に復興したものである。また、関東大震災で被害を受けた航空研究所も、駒場に移転することとなり、8月に建築に着手し、昭和2年に移転が一部完了した。
    昭和2年3月31日現在の建物配置図
昭和2年3月31日現在の建物配置図
駒場時代、施設が最も充実していたころの様子がわかる図。ただし、すでに農場の一部が前田邸の敷地として区分されている。実際の建物配置は大正末ごろの可能性もあり、また、図の建物と記号が一部が合わないところがあるので注意。
当時の駒場の農学部全景
当時の駒場の農学部全景
当時の駒場の農学部全景(建物の配置を示したもの)
(建物の配置を示したもの)
昭和3年(1928年) 3月27日 静岡県浜名郡新居浜町の町有地6万372坪を愛知演習林新居海岸砂防林として寄付を受ける  
3月28日 東京府北多摩郡府中町の民有地6,944坪を府中演習林用地として購入  
7月26日 本郷区向丘弥生町の民有地4,013坪余を農学部敷地として購入 一高の東側の旧堀田家所有地。
10月15日 埼玉県秩父郡大滝村の民有地2万1417坪を秩父演習林用地として購入  
昭和4年(1929年) 10月30日 東京府北多摩郡田無町の民有および町有地11万887坪を農学部附属農場および苗圃見本林として購入  
昭和5年(1930年) 2月 農学部1号館竣工(大正15年8月着工) 内田祥三による関東大震災後の本郷キャンパス復興計画に従って、農学部1号館、2号館、3号館が設計された。一高側の資料によれば、農学部の建物の建設で、一高が授業を行っていたキャンパスはたいへん騒がしかったという。
12月9日 愛知県東春日井郡水野村の民有地1万6837坪を愛知演習林用地として購入  
昭和6年(1931年) 3月30日 朝鮮江原道の民有地および国有地2万5287坪を朝鮮江原道演習林用地として購入  
昭和7年(1932年) 7月 樺太栄浜郡栄浜村の民有地1万1617坪を演習林用地として購入、1万4714坪を樺太庁より借入  
12月26日 東京府北多摩郡府中町の民有地2万8909坪を農学部実科敷地として購入  
昭和8年(1933年) 12月26日 樺太栄浜郡栄浜村の民有地1万4345坪を樺太演習林用地として購入  
    駒場農学部中通り
駒場農学部中通り
獣医学の建物の前から旧農場方向(このときすでに西側の土地は航空研究所、前田邸に移管されていた)を望む。
駒場農学部の構内
駒場農学部の構内
正面は獣医学の建物(解剖生理学馬学本館)で、大正6年9月15日竣工。それ以前は、明治20年代に建てられた獣医学教室、その西側に図書室の建物があった。写真の建物の西側に内外科教室本館(1つ上の写真、大正4年6月30日竣工)、衛生学薬物学教室本館(大正3年3月31日竣工)、北側に解剖学及外科手術実習室並晒骨蹄標本製造室(大正5年5月30日竣工)や蹄鉄工場(明治35年11月15日竣工)などがあった。建物の前に像が見える。
化学教室
化学教室
大正15年から建設が始まり、昭和2年3月25日に竣工。後に一高の南寮となる。東京大学教養学部では、第一研究棟として利用されたが、平成10年に解体された。農学部の寄宿舎は昭和9年ごろまであったが、その跡地を中心に一高の寮が建てられた。この写真が撮影された昭和8年ごろ、すでにこの建物の北側では中寮が建設中であった。
駒場運動会
駒場運動会
農作物一式で作られた飾り門や、写真のように農産物の大型模型を作るなど、大がかりな運動会は当時評判で、大いににぎわった。皇族の見学もあったという。駒場運動会については、こちらを参照。
水田圃場での田植えの風景
水田圃場での田植えの風景
農学教室(写真右奥)西側の水田から農芸化学教室(写真中央奥)の方に向かって撮影したと思われる。駒場の水田は、駒場野の3つの谷に作られた細長い谷地田で、写真はその中央部分。現在、駒場野公園に現存する水田は、これにつながる南側の部分。
駒場御殿
駒場御殿
敷地の南側にあり、教官会議の場に使われていた。明治45年3月20日に竣工し、日本庭園や小使室が付設。一高時代には、本館時計台の西側に移築された。
昭和9年(1934年) 12月4日 農学部移転にかかわる本郷拡張復旧計画が決定された  
昭和10年(1935年) 4月1日 実科が独立して東京高等農林学校となる 東京高等農林学校の構成は、校長のほか、教授18、助教授11、助手2、書記6であった。農学部実科生徒は相当する学年に編入され、駒場の農学部構内で授業が開始された。東京高等農林学校は、府中に建設され、現在の東京農工大学農学部キャンパスとなっている。
4月1日 農学科農業土木学専修が農業土木学科と改称(農業土木学科設置) 農業の生産基盤の充実が求められ、農業土木技術者の需要が増大していたことが背景にある。
4月 東京帝国大学農学部紫友会発足 紫友会誌創刊号によれば、同じ名前の会がすでに存在していたが、ボート関係の会であったらしく、キャンパス移転を契機に本格的な同窓会として発足した。
5月 箱根演習林廃止  
7月17日 農学部の位置を東京市本郷区向ヶ岡弥生町に変更 農学校以来キャンパスを置いた駒場から本郷に正式に移転した。昭和11年3月には、駒場の農学60年の歴史をこの地に刻むために、農学碑が現在の駒場Tキャンパス内に建てられた。
駒場農学碑除幕式
駒場農学碑除幕式
昭和11年6月27日、駒場農学碑の除幕式が行われた。祝辞を読む高橋偵造建設委員長と委員長自身による碑文。この碑は、卒業生および関係者で建設したもので、石は長野県産輝石安山岩である。温室の跡に置かれていたもので、現在、駒場キャンパス900番教室の南側にある。
    引っ越し作業は6月ごろから行われたが、年末までかかったようである。一高は、伝統の正門主義を貫いたため、出入りに難儀した話が紫友会誌創刊号に掲載されている。当時、実験室等はまだ駒場に残り、講義は本郷で行っていた時期があり、キャンパス間の移動に苦労した時期があったようである。なお、駒場の土地は、東側から、一高、前田邸、東京農業教育専門学校、航空研究所に利用された。
キャンパス交換で向陵正門を出る一高生たち
キャンパス交換で向陵正門を出る一高生たち
一高生たちは、その後、神田を過ぎ丸の内に入り、皇居遙拝。桜田門から渋谷に向かい、駒場に入った。
移転当時の一高の駒場キャンパ
移転当時の一高の駒場キャンパス
本館時計台など、一高の新しい建物の建設されている中で、旧農学部の建物も多数残っている。旧農学部の建物のいくつかは、一高でも利用されていたが、戦災でそのほとんどが消失、もしくはその後取り壊された。獣医学教室の建物は、現在の教養学部5号館の位置にあり、一高の5号館として、さらに戦災を免れ教養学部でも寮務室などに利用されていたが、昭和46年に取り壊された。現在、旧農学部の建物は駒場キャンパス内に残っていない。
上の2つの写真は、「写真図説 嗚呼玉杯に花うけて 第一高等学校八十年史」より。
8月1日 東京府北多摩郡府中町の農学部実科敷地2万8909坪ならびに府中演習林4万5694坪が東京高等農林学校へ所属変更された 東京高等農林学校の敷地は、府中町の計らいで駒場と称された。
8月 農場が北多摩郡田無町に移転、多摩農場と称する 昭和11年ごろの多摩農場
昭和11年ごろの多摩農場
農学科では入学初年に1年間、田無で実習があった。当時、本郷から片道約1時間半かかったという。
9月14日 一高が駒場移転式を挙行  
11月30日 農学温室、農芸化学硝子室、植物学温室、作物実験室新築  
昭和11年(1936年) 2月10日 農学部2号館竣工(昭和7年8月着工)、1号館増築 昭和11年ごろの農学部の全景
昭和11年ごろの農学部の全景
敷地北側には、一高の木造の建物(旧分館、寮舎等)が広がっている。
昭和11年3月31日現在の建物配置図
昭和11年3月31日現在の建物配置図
5月31日 動物学教室昆虫および水産動物試験室定温室新築  
7月21日 附属水産実験所を設置 水産学科は、創設以来、臨海実習・研究の場として神奈川県三浦市の理学部附属臨海実験所を利用してきた。同所は、その地理的関係から外洋性生物を対象とする研究・実習には至便であったが、内湾浅海の生物を対象とする研究・実習および養殖に関連する研究・実習を充実させるため、新たに農学部附属水産実験所を設置した。本実験所は、名古屋鉄道会社、渥美養魚株式会社、および渥美郡旧泉村より土地・建物の寄付があり、愛知県知多郡知多町新舞子実験所と渥美郡渥美町伊川津実験所の2カ所に分設する形で開設された。新舞子実験所には開設当初より水族館が付置され、研究だけでなく、社会教育施設として一般に公開された。
創立当時の伊川津水産実験所
創立当時の伊川津水産実験所
新舞子の水族館とその内部
新舞子の水族館とその内部
新舞子の水族館とその内部
当時としてはその規模は大きく、観覧水槽は54個を超え、東洋一とも言われた。開館後の7月、8月は連日満員の盛況だったという。
9月17日 本郷区向ヶ岡弥生町の民有地414坪を購入し農学部の敷地に加える 弥生町通り(現言問通り)に面した一角。
昭和12年(1937年)   多摩農場に経済農場を附設 農業経済学科の所管に属する経済農場は、駒場で明治33年9月に創始され、2年後に実施されていたが、この年再開され、昭和28年まで続いた。中流の農業経営の機構を実験的に研究し、かつそれを実際の家計と結びつけて考察していこうとするものであった。
経済農場の農家
経済農場の農家
7月5日 冬室新築  
12月4日 農学部附属農業教員養成所、独立して東京農業教育専門学校となる 東京農業教育専門学校は、農業教員の養成を目的とする官立の教員養成機関であり、農学部が本郷に移転した後も駒場に残った。昭和24年、東京高等師範学校、東京文理科大学、東京体育専門学校と統合して東京教育大学(現在の筑波大学の前身)となる。昭和53年に筑波に移転するまで、駒場の地にあった。現在はその敷地は駒場野公園となっている。
12月7日 愛知県知多郡旭村の民有地708坪を水産実験所用地として寄付を受ける  
12月8日 愛知県渥美郡泉村の村有地385坪を水産実験所用地として寄付を受ける。翌12月9日、同村の民有地493坪を同じく寄付を受ける  
昭和13年(1938年) 8月1日 農学部の旧敷地6万9813坪1合4勺9才(約23ヘクタール)と第一高等学校の旧敷地3万714坪3合1勺5才)約10ヘクタールと所属交換  
    竣工当時の農学部正門
竣工当時の農学部正門
昭和12年4月に竣工した。同年、両脇の表門門衛所と車庫(現在の農学資料館)も竣工している。それまでは一高時代の門がそのまま使用されていた。平成15年に門扉の木材部分を新しくするなど、改修工事が行われた。
昭和14年(1939年) 9月10日 農学部附属農場事務所新築 現在の本館南側に位置していた旧本館。(現在の)本館の竣工後の昭和56年に解体撤去された。農場の田無移転後、農場職員の主体的研究が開始され、昭和14年、後に初代農場専任助教授になった輪田潔助手よる学会報告がなされた。
    昭和14年3月31日現在の建物配置図
昭和14年3月31日現在の建物配置図
建設中の農学部3号館も記載されている。キャンパス移転の際、敷地の狭隘化をさらに進めるとして問題となった野球場は3号館より先に建設された。旧一高の建物も、農学部分館、家畜病院、蹄鉄工場、食堂などに利用された。
昭和15年(1940年) 8月 熱帯林業研究所設置 熱帯林の研究調査と、熱帯林を対象とした林業の改良指導を目的に、中華民国海南島に設置された。地積は、8万3000町歩。戦後、台湾演習林とともに接収された。
昭和16年
(1941年)
2月4日 林学科を林業学専修と林産学専修とに分ける  
2月4日 検見川運動場に臨時農場を設け、食糧増産の集団勤労を行うことを決定 農学部附属農場長の佐々木蕎教授らが昭和19年ごろまで農作業の指導にあたった。
3月 南方資源研究会発足 農林、水産、地下資源の3部制で発足。会長は総長、副会長は農学部長とする。翌年、農産、林産、水産、鉱物、石油、医学衛生、薬学の7部制。農学部を中心に理・工の教官21名で編成、うち12名が海軍嘱託。昭和19年1月、南方自然科学研究所に発展。
3月20日 東大鋤友会が結成される 学生課の支持を得て、農学部那須皓教授を指導官とし学生有志により結成された学内公認団体。
5月31日 農学部3号館竣工(昭和12年9月着工) 建設中の農学部3号館(昭和14年撮影)
建設中の農学部3号館(昭和14年撮影)
10月 戦時のため、圧縮授業が開始され、12月に繰り上げ卒業。17年度以降はさらに6か月繰り上げられた。  
    農学部1号館
農学部1号館

農学部2号館
農学部2号館

農学部3号館
農学部3号館

温室
温室
すべて昭和16年ごろの撮影
台湾演習林
台湾演習林

朝鮮演習林
朝鮮演習林

樺太演習林
樺太演習林
すべて昭和17年ごろの撮影
昭和17年(1942年) 11月30日 農業報国連盟の委託により熱帯農業教員養成所を設置 熱帯農業指導者の錬成施設を設置するという農林省の意向を受け、農業報国連盟の委託により設置された。多摩農場の一角にあり、農林学校の卒業生などに対して短期間の教育を行った。全寮制の24時間教育で、農場の教官が指導にあたった。昭和18年6月20日に第1回卒業式、昭和19年1月16日に第2回卒業式、昭和19年6月に第3回卒業式が行われたが、南方事情の悪化により本来の目的をもった教育は困難になり、第3期生に至っては、大東亜省、海軍の委託的色彩が強く、未経験な若者に対する勤労動員的性格を帯びたものであった(東京大学百年史通史)。終戦に伴って閉鎖された。なお、建物や施設の整備が完了したのは昭和19年8月25日であることから、当初は農場の建物・施設を利用して教育が行われていたと推測され、施設整備完了後わずか1年足らずで熱帯農業員養成所は閉鎖されたことになる。
熱帯農業教員養成所(昭和18年撮影)
熱帯農業教員養成所(昭和18年撮影)
昭和18年(1943年) 1月14日 樹芸研究所新設 熱帯、亜熱帯の特用樹林を研究する施設として、静岡県賀茂郡南上村青野の民有林243町歩余(約240ヘクタール)を購入して設立された。その後、昭和23年に同町加納へ研究室・事務室を移し、青野に作業所を置いた。昭和30年に加納研究室の裏山約4ヘクタール、昭和38年に温泉の寄贈を受けた。現在総面積246.1ヘクタールの試験林と温室を有している。
6月20日 熱帯農業員養成所第1回卒業式を農学部附属多摩農場で実施  
8月7日 近藤康男教授辞職 昭和13年に刊行した転換期の農業問題が問題視され、辞職に追い込まれた。
9月27日 農学部附属農場二宮果樹園を二宮農場と改称 戦時下の食糧確保のために生産(厚生)農場化された。なお、生産農場はこの他に、検見川厚生農場(現検見川総合運動場)や野辺山高冷地生産農場(現信州大学農学部附属附属アルプス圏フィールド科学教育研究センター野辺山農場)があった。なお、昭和16年2月4日に設置された検見川生産農場では、農場長の佐々木蕎教授らが昭和19年ごろまで農作業の指導にあたった。
昭和19年(1944年) 1月9日 南方自然科学研究所創設 農産、林産、水産、鉱物、石油、医学衛生、薬学の7部制。農学部旧一高校舎に事務所が置かれた。昭和21年3月22日、立地自然科学研究所に改称し、昭和27年3月31日廃止された。 
3月 農学科畜産学専修新設  
昭和20年(1945年) 3月10日 空襲により農学部木造建物の大部分(農学部分館、解剖学教室、獣医学教室、家畜病院、蹄鉄工場、森林化学教室等旧一高校舎)を焼失。図書や研究用の家畜も失う。 この3月の空襲が契機となって、農学部では学科ごとに重要な研究教育用資材の疎開が始められ、顕微鏡などの資材を各地の疎開先に移した。農学部1号館、2号館、3号館は幸いにして戦災を免れ、終戦後、疎開していた研究・教育資材が持ち込まれた。
空襲によって消失した農学部分館付近
空襲によって消失した農学部分館付近
池之端の方から広がった火の手は農学部の木造校舎を焼け尽くした。翌日、火傷を負った馬が焼け跡にポツンとつながれていたという。

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