発表者

新村芳人(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任准教授/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト グループリーダー)
松井 淳(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト)
東原和成(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト 研究総括)

発表のポイント

◆同じ霊長類でも、鼻腔の曲がったサル(曲鼻猿類)は鼻腔の真っすぐなサル(直鼻猿類)の約2倍の嗅覚受容体(OR)遺伝子を持つ。
◆種によるOR遺伝子の数の違いは、鼻の形態と食性(食物の種類)の違いによって説明できるのに対し、活動パターン(夜行性・昼行性)や色覚系の違いにはほとんど影響を受けない。特に、葉をたくさん食べるサルほどOR遺伝子数が少ない。
◆霊長類の進化過程において、目・鼻の解剖学的構造が大きく変化した際と、果実食から葉食へと食性が変化した際に、OR遺伝子が大規模に失われた。
◆私たちヒトや類人猿では、他の霊長類に比べてOR遺伝子の消失速度が速まっている。これらの研究成果は、ヒトの嗅覚系の進化を理解する上で重要である。

発表概要

  一般に、霊長類は視覚に依存した動物であり、嗅覚にはあまり依存していないと考えられていますが、霊長類の進化過程において嗅覚系の退化がいつどのようにして起きたかはよく分かっていません。東京大学大学院農学生命科学研究科・JST ERATO 東原化学感覚シグナルプロジェクトの新村芳人特任准教授、東原和成教授らの研究グループは、24種の霊長類について、ゲノムにコードされているOR遺伝子を詳細に比較し、OR遺伝子の退化のシナリオを明らかにしました。

解析の結果、霊長類の中でも鼻腔の曲がったサル(曲鼻猿類)は鼻腔の真っすぐなサル(直鼻猿類)の約2倍のOR遺伝子を持つことがわかりました。また、対象とした24種の霊長類は目や鼻の形態、活動パターン(夜行性・昼行性)、色覚系、食性などが多岐に渡りますが、統計的な解析を行ったところ、鼻の形態と食性の違いが種によるOR遺伝子数の違いを有意に説明できることがわかりました。特に、葉をたくさん摂取する食性のサルほどOR遺伝子数が少ない傾向が見られました。一方、活動パターンや色覚系の違いはOR遺伝子数の違いにほとんど影響をおよぼさないことも示されました。また、霊長類の進化過程におけるOR遺伝子の消失速度を推定した結果、目と鼻の解剖学的な構造が大きく変化した直鼻猿類の共通祖先と、果実食から葉食へと食性が変化したコロブス類の共通祖先において、OR遺伝子の消失速度が速まったことが示されました。さらに、私たちヒトや類人猿では他の霊長類に比べてOR遺伝子の消失速度が速まっていることもわかりました。本研究は、ヒトの嗅覚系がどのように進化してきたかを理解する上で重要です。

発表内容

図 霊長類の進化過程においてOR遺伝子の消失速度が速まった系統:(A)直鼻猿類の共通祖先、(B)コロブス類の共通祖先、(C)ホミノイド(ヒトと類人猿)の各系統。Aでは目・鼻の解剖学的な構造変化により嗅覚依存から視覚依存への移行が起き、Bでは果実食から葉食への食性の変化が起きた。CでOR遺伝子の消失速度が速まった原因はよく分からない。カッコ内に、それぞれの種または各グループに含まれる種のもつOR遺伝子数を示す。種名またはグループ名の左側に、系統関係を示した。霊長類の各グループに対応する三角形は、現存する種の数に比例するように描かれている。 (拡大画像↗

匂いの認識は、鼻腔の嗅上皮にある嗅覚受容体(olfactory receptor:OR)(注1)に空気中の匂い分子が結合することにより始まります。これまでに調べられた哺乳類の多くは800~1200個のOR遺伝子を持つのに対し、ヒトやチンパンジー、ニホンザルではその数は300~400個です。それぞれの生物種が持つOR遺伝子の数は、その種の匂いの嗅ぎ分け能力を反映していると考えられます。私たちヒトを含む霊長類でOR遺伝子数が減少したのは、霊長類が視覚に依存した動物であり、嗅覚にはあまり依存していないことの証拠だと考えられてきました。しかし、霊長類の進化過程において嗅覚系の退化がいつどのようにして起きたかはよくわかっていません。そこで本研究では、目や鼻の形態、活動パターン(夜行性・昼行性)、色覚系、食性などが多様な24種の霊長類について、ゲノムにコードされているOR遺伝子の比較により、その退化のシナリオを明らかにしました。
  霊長類は鼻の形態により曲鼻猿類と直鼻猿類(注2)の2つのグループに分けられます。解析の結果、曲鼻猿類は直鼻猿類の約2倍に相当する680~820個のOR遺伝子を持つことがわかりました(図)。一方、コロブス類(注3)でOR遺伝子数が最も少なく、その数は約200個でした。つまり、サルの中にも、鼻の利くサルと鼻の利かないサルがいるのです。次に、系統関係を考慮した統計的な解析を行い、OR遺伝子数の種ごとの違いを説明する要因を探索しました。その結果、鼻の形態の違いを統計的に除去すると、活動パターンと色覚系の違いはOR遺伝子数を有意に説明しないことがわかりました。つまり、夜行性のサルがより鼻が利くということはないし、色がよく見えるからといって鼻が利かなくなるというわけでもありません。一方、食性の違いはOR遺伝子数を有意に説明していました。餌に占める葉の割合が大きいほど、また、果物の割合が小さいほど、OR遺伝子数が少ない傾向がありました。
  次に、個々のOR遺伝子を進化的に追跡することによって、霊長類の進化過程においてOR遺伝子がどのくらいの速さで失われたかを調べました。その結果、直鼻猿類の共通祖先の系統でOR遺伝子の大規模な消失が起きたことが示されました(図)。この系統では、網膜裏の反射板であるタペータム(注4)が失われるとともに、網膜に中心窩(ちゅうしんか)(注5)が形成され、高精度の視覚が実現したことが知られています。直鼻猿類の共通祖先の系統では、数百万年という比較的短い時間に嗅覚依存から視覚依存への移行が起きたと考えられており、OR遺伝子の大規模な消失もその過程の一環と考えられます。
  霊長類の進化過程においてOR遺伝子の消失速度が最も速かったのは、コロブス類の共通祖先の系統でした(図)。ニホンザルなどのオナガザル類は、果物を主な餌とするのに対し、コロブス類では主に葉を餌とします。コロブス類は、ウシのような反芻胃を持ち、胃の中の共生細菌の働きによりセルロースを消化することができます。そのため、固い葉や種子など、他のサルが食べられないものも餌とすることができます。果物を食べるサルにとっては匂いの情報は重要です。熟した果実は糖分を多く含み、特有の香りを発します。この香りは栄養分のシグナルであり、多くのサルは果実が熟したかどうかを判断するために匂い嗅ぎ行動(スニッフィング)を行います。一方、植物の側にとっては、サルに果実を食べてもらい、種を散布してもらうことが必要です。そのため、熟した果実の発する香りとそれを食べるサルの嗅覚は共進化したと考えられます。実際、果実を主な餌とするクモザルでは、熟した果実の香りの主成分に対する感度がラットやイヌに比べて高いことが報告されています。それに対し、葉を食べるためには匂い情報はあまり重要ではなく、コロブス類の一種であるテングザルが餌の葉をどのように選ぶかを調べた研究では、近くにたくさんある葉を食べるだけで、特にえり好みはしないことが報告されています。
  本研究から、果実食から葉食への食性の変化が、霊長類の進化過程においてOR遺伝子の大規模な消失をもたらした主要な要因であることが示されました。私たちヒトは火を用いて調理を行い、哺乳類の中で最も豊かな食性を持ちます。またヒトや類人猿では、それぞれの種への進化過程でOR遺伝子の消失速度が速まっていることも示されました(図)。以上のことから、本研究の成果は、ヒトの嗅覚系がどのように進化してきたかを理解する上で重要な示唆を与えるものです。
   本研究は、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)のERATO東原化学感覚シグナルプロジェクトの研究の一環として行われました。本プロジェクトでは、匂い・フェロモン・味などの化学感覚シグナルがどのようにして情動や行動に至るか、そのメカニズムを分子レベルで解き明かし、「医療」や「健康」、「食」といった産業展開に繋がる成果の蓄積を目指しています。

発表雑誌

雑誌名
Molecular Biology and Evolution
論文タイトル
:Acceleration of Olfactory Receptor Gene Loss in Primate Evolution: Possible Link to Anatomical Change in Sensory Systems and Dietary Transition
著者
:Yoshihito Niimura, Atsushi Matsui, Kazushige Touhara
DOI番号
:10.1093/molbev/msy042
論文URL
https://doi.org/10.1093/molbev/msy042
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問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
特任准教授 新村芳人 (にいむら よしひと)
Tel:03-5841-5590
Fax:03-5841-8024
E-mail:aniimura<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp  <アット>を@に変えてください。
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用語解説

注1 嗅覚受容体(olfactory receptor:OR)
匂い分子を認識する膜タンパク質。鼻腔の嗅上皮にある嗅神経細胞で発現している。
注2 曲鼻猿類と直鼻猿類
曲鼻猿類は鼻腔が屈曲し、鼻孔が横を向くのに対し、直鼻猿類では鼻腔が真っすぐで、鼻孔が下を向いている。曲鼻猿類はキツネザルやロリスを含み、直鼻猿類はメガネザル・新世界ザル・旧世界ザル・ホミノイド(ヒトと類人猿)の4つのグループを含む。
注3 コロブス類
旧世界ザルはオナガザル類とコロブス類の2つのグループに分けられる。オナガザル類はニホンザルやヒヒを含み、コロブス類はテングザルなどを含む。
注4 タペータム
網膜の裏にある反射板で、夜行性の哺乳類の多くはタペータムを持っている。暗闇の中でネコの眼が光るのは、このタペータムがあるためである。曲鼻猿類はタペータムを持つが、直鼻猿類は持たない。特に、直鼻猿類であるメガネザルおよびヨザルは、夜行性であるにもかかわらずタペータムを持たない。
注5 中心窩
網膜の中心にあるくぼみで、光受容体である錐体細胞が密集している。この構造により、視野の中心で高精度の視力が可能になる。私たちが物をじっと見るときに使っているのがこの中心窩である。曲鼻猿類は中心窩を持たないが、直鼻猿類は中心窩を持つ。
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