人生最大の転機といえば東大に落ちたときでShin-Ichiro TakahashiNo.20動物細胞制御学研究室新幹線チケットを母が勝手に払植物の研究をしたかったのですが、東大では動物の栄養学を専攻しました。さすがに植物研究者の父の下で勉強するのは嫌でしたから。 当時の僕と父の関係を象徴するのが学位記の授与式。当時、父が学部長だったので、父が息子に学位を授与することになってしまいました。これを注目する関係者も大勢いました。当日、父は「恥ずかしいから欠席しろ」と言い、僕はこれを断固拒否。その光景を見ていた母は机を叩いて、「一緒に手をつないで行きなさい!」。さすがに手はつながなかったものの、同じ電車で大学まで行きました。でも、授与式ではとうとう目を合わせませんでした。 そんな父が逝ったのが2016年。専門領域を超えて地球のために行動する科学者を育成するためのプログラム「One Earth Guardians(地球医)育成プログラム」を農学部に立ち上げた頃です。父も賛同していました。農薬研究の第一人者でもあった父には忸怩たる思いがあったのです。 「俺たちの時代は農薬がなければ、人類の食料を支えられなかった。でも、これからの科学者は未来への影響を考えないといけない。『One Earth Guardians』は絶対に推進しなさい」 最期の言葉は「俺がやったことの落とし前をつけてくれ」でした。父から託されたメッセージはずっと背負い続けていく覚悟です。しょうか。国立大学の入試が一期校と二期校とに分かれていた最後の年で、東京農工大に入りました。もう1年勉強しようと思っていたのですが、祖母が生きているうちに大学に入った姿を見たいと言うわけです。祖母は翌年亡くなったので、その意味ではおばあちゃん孝行ができました。 実は、高校時代は本気でプロのテニスプレーヤーになるつもりでした。ところが、2年のときに肩の腱を断裂するという大怪我をしました。これを悲しむどころか、「神様は別なことをやりなさいと言ってるんだ」と喜んだのが両親。というのも父の高橋信孝は東大農学部の教授で、祖父も東京医科歯科大の病院長。要するに学者一家なんです。僕が農工大の工学部ではなく、農学部に進んだのは心のどこかに父と張り合う気持ちがあったからです。 大学院進学では東大と京大を受けるつもりで、本命は京大でした。先に東大に合格し、さあ、これから京大の試験だと思っていたら、仏壇に置いていた京都行きのい戻ししてしまったため、受験すらできませんでした。本当は京大で硬式テニスに没頭していた頃。硬式テ硬式テニスにニスに没頭し没頭していたていた頃頃。最近、再開しました。農学部1号館8番教室で父から博士号をもらう。農学部学部1号館1号館8番教8番教室で父室で父から博から博士号を士号をもらうもらう。同じ場所で最終講義をします同じ場所で最終講義をします。父のラストメッセージ高橋 伸一郎教授Epiphaniesその瞬間
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