発表者
永嶌 鮎美 (東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学博士課程1年)
東原 和成 (東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻教授)

発表概要

匂い物質が嗅粘液(注1)中で酵素変換される現象を見出し、この反応が匂い知覚にも影響を与えることを明らかにした。

発表内容

嗅粘液中で起こる匂い物質変換反応とその匂い知覚への影響

図 嗅粘液中で起こる匂い物質変換反応とその匂い知覚への影響
空気中を漂う匂い物質A(赤丸)の一部が、鼻腔内の嗅粘液中で酵素(緑)による反応を受けて匂い物質B(青丸)となる。その結果、脳では純粋に匂い物質Aを感じるのではなく、匂い物質Aと匂い物質Bの混合物として知覚される。

鼻腔内に入った匂い物質は、嗅粘液に溶け込み、嗅覚受容体(注2)に結合し、嗅神経細胞を活性化することで匂いとして知覚されます。つまり、嗅粘液への溶け込みは匂い受容の最初のステップであると言えます。近年、我々の研究グループは、いくつかの嗅覚受容体に関して、生体レベルでの匂い応答と培養細胞系での匂い応答を比較すると、応答特性に違いがあることを見出しました(Oka et al. Neuron 52 : 857-869)。また、マウス生体において嗅粘液を除去すると、ある匂い物質に対する嗅神経細胞の応答強度が増大することから、嗅粘液が個体レベルでの匂い知覚に影響を与えることが示唆されていました。今回我々は、嗅粘液中の酵素が匂い物質を変換する現象を発見し、匂い応答への影響を嗅神経レベル、行動レベルで明らかにしました。

まず、マウス嗅粘液には、アルデヒドやアセチル基を持つ匂い物質を代謝する酵素活性があることを見出しました。また、マウスに匂いをかがせた後に嗅粘液を採取すると、酵素反応によって生成したと考えられる匂い物質が検出されました。したがって、吸気とともに鼻腔内に取り込まれた匂い物質が、嗅粘液中で酵素変換されることが生理的条件下で示されました。次に、嗅覚系の一次中枢である嗅球において、酵素反応の阻害剤処理前後で、匂いに応答した糸球体(注3)の分布パターンを比較しました。その結果、嗅粘液中で変換を受ける匂い物質に対する応答パターンは、阻害剤処理前後で異なりました。したがって、嗅粘液中の酵素反応は、匂い物質が嗅覚受容体に到達するよりも前に起きていることが示唆されました。最後に、変換を受ける匂い物質に対する知覚が、酵素反応の阻害剤処理前後で変化するか検証しました。マウスに匂いと報酬を対応づけて学習させた後、阻害剤処理を行った結果、マウスは嗅粘液中で酵素変換反応を受ける匂いを識別しにくくなることが明らかになりました。

本研究で、嗅粘液に溶け込んだ匂い物質の一部はすばやく酵素変換されており、この反応は活性化される嗅覚受容体の組み合わせと匂い知覚に影響を与えることがわかりました。匂いの種類によっては、その匂いを純粋に感じているのではなく、その匂いと酵素代謝物の混合物を感じているという驚くべき発見です。本来、嗅粘液内の酵素は、外界からやってきた匂いや有害物などを分解したり除去したりするために存在すると思われますが、その反応が早い故に、匂いの知覚にも影響をあたえていたのです。酵素の量は、年齢、性、人種、体調によって異なることもあるでしょうから、その違いによって匂いの感じ方にも違いがでる可能性もあります。つまり、今回の結果は、我々がとらえている匂いの世界の少なくとも一部が、嗅粘液というフィルターを通してつくられているという新しい知見を提唱しています。

発表雑誌

雑誌: The Journal of Neuroscience(2010年12月1日掲載)
著者: Ayumi Nagashima and Kazushige Touhara
題名: Enzymatic conversion of odorants in nasal mucus affects olfactory glomerular activation patterns and odor perception

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科
応用生命化学専攻 生物化学研究室
教授 東原 和成
Tel: 03-5841-5109
FAX: 03-5841-8024
E-mail: ktouhara@mail.ecc.u-tokyo.ac.jp
HP: http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/

用語解説

注1 嗅粘液

鼻腺やボーマン腺などの外分泌腺からの分泌液。哺乳類の嗅粘液は、匂い結合タンパク質や様々な代謝酵素を含む。このことから、嗅粘液は、匂い物質を受容部位まで輸送する役割や、外界由来の有害な化学物質を代謝・分解する役割を持つと考えられている。

注2 嗅覚受容体

嗅神経細胞に発現し、刺激となる物質を受け取るためのセンサーたんぱく質。個々の嗅神経細胞においては、1種類の嗅覚受容体遺伝子のみが発現している。

注3 糸球体

嗅神経細胞の軸索末端が、嗅球の表面において、二次神経細胞である僧帽・房飾細胞の樹状突起とシナプスを形成して作る構造体。一般に、同じ受容体を発現する嗅神経細胞由来の軸索は、特定の糸球体に収束投射する。したがって、ある嗅覚受容体の活性化は特定の糸球体の発火と一対一で対応する。すなわち、ある匂いによって活性化された嗅覚受容体の組み合わせの情報は、保存されて嗅球に伝わる。その結果、それぞれの匂いに固有の応答糸球体パターンができる。