発表者
藤井 告(東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻、日本学術振興会特別研究員PD)
藤井 毅(東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻、特任助教)
並木重宏(東京大学 先端科学技術研究センター、特任助教)
阿部広明(東京農工大学 農学研究院 生物生産科学部門、助教)
櫻井健志(東京大学 先端科学技術研究センター、特任助教)
大沼昭夫(財団法人大日本蚕糸会 蚕業技術研究所、常勤嘱託研究員)
神崎亮平(東京大学 先端科学技術研究センター、教授)
勝間 進(東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻、准教授)
石川幸男(東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻、教授)
嶋田 透(東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻、教授)

発表概要

正常なカイコの雄成虫は、雌が放出するフェロモン(ボンビコール)(注1)に特異的に応答して交尾行動を示します。今回、私たちは、転写因子(注2)BmAcj6をコードする遺伝子に異常のある変異体(spli)は、ボンビコールにほとんど応答しなくなるだけでなく、正常な雄なら反応しないはずのボンビカール(ボンビコールの酸化物)に強く反応して交尾行動を起こすことを発見し、その行動異常のメカニズムを解明しました。本研究は、東京大学大学院農学生命科学研究科(昆虫遺伝研究室と応用昆虫学研究室)、東京大学先端科学技術研究センター、東京農工大学農学研究院、(財)大日本蚕糸会蚕業技術研究所の間の共同研究の成果です。

発表内容

図1 ボンビカールに応答するBmacj6変異体(白いカイコ)

図1 ボンビカールに応答するBmacj6変異体(白いカイコ)拡大画像↗
ボンビカール(図左)とボンビコール(図右)が入ったビンの蓋をゆるめ、Bmacj6変異体(白いカイコ)と正常なBmacj6を持つカイコ(黒いカイコ)を周辺に放すと、黒いカイコはボンビコールに誘引されたのに対して、白いカイコは、ボンビカールに誘引された。

図2 Bmacj6変異体がボンビカールに応答するメカニズム

図2 Bmacj6変異体がボンビカールに応答するメカニズム拡大画像↗
ボンビコール受容体(Or1)を発現する嗅神経細胞とボンビカール受容体(Or3)を発現する嗅神経細胞は、触角に存在する感覚毛において、対になって存在しています。ボンビコール応答嗅神経細胞は、触角葉のtoroid(トロイド)という領域へ投射している一方で、ボンビカール応答嗅神経細胞は、cumulus(キュムラス)という別の領域に投射しています。今回、我々は、Bmacj6変異体において、(1)Or1の発現量が正常なカイコの約1/1000に激減しているためにボンビコールに対する応答性が著しく低下すること、(2)ボンビカール応答嗅神経細胞が、本来のキュムラスではなく、トロイドに投射しているために、ボンビカールによって交尾行動が誘起されることを明らかにしました。

昆虫の成虫は、異性が放出する匂い物質、すなわち性フェロモン(注1)を感知し、発信源へ接近し配偶行動を開始します。カイコはフェロモン研究のモデル生物として最も古い研究の歴史があり、世界で最初に構造が決定された性フェロモンが、カイコの雌成虫から得られたボンビコール(bombykol)です。今回、我々はBmacj6という遺伝子に異常のあるカイコ蛾の雄は、ボンビコールに対する応答性が著しく低下するだけでなく、正常な雄がまったく興味をしめさないボンビカール(bombykal)に対して交尾行動を示すことを発見しました。

分子生物学的な解析の結果、Bmacj6の変異体では、嗅覚器官である触角において、ボンビコールを受容するのに必須であるボンビコール受容体(注3)の遺伝子の発現量が、正常なカイコの約1000分の1にまで低下しているために、ボンビコールに対する応答性が著しく低下することがわかりました。一方、正常な雄成虫において、ボンビコール受容体を発現する嗅覚神経とボンビカール受容体を発現する嗅覚神経は、それぞれ脳のトロイドとキュムラスという異なる領域に連絡しています。神経学的な解析の結果、Bmacj6の変異体では、ボンビカール受容体を発現する嗅覚神経が、誤ってトロイド領域に繋がっていることがわかりました。つまり、Bmacj6の変異体では、神経の配線の異常によって、ボンビカールが、ボンビコール同様に交尾行動を誘起してしまうのです。

Bmacj6は、主に神経系で発現する転写因子(注2)です。本研究によって、Bmacj6はボンビコール受容体の発現を支配しているだけでなく、嗅覚神経細胞を脳に正しく投射する役割を演じていることが明らかになりました。スズメガの仲間など、カイコの近縁の昆虫には、ボンビカールを性フェロモンとして利用する種がいます。今回我々が発見した現象は、1遺伝子の突然変異が原因で祖先的な嗅覚が蘇ってしまう、いわば先祖帰り現象と考えられます。

昆虫は数百万もの種が存在し、実際に野外では多くの種が同時に異性を探索しています。そのなかで昆虫は、同種を認識するために種ごとに異なるフェロモンを用いています。したがって、昆虫の進化の過程ではフェロモンを認識する機構も進化してきたに違いありません。本発見により、転写因子の進化が嗅覚システムの変更を通して昆虫の種分化を実現してきた可能性が示唆されました。

なお、本研究は科学研究費新学術領域研究「複合適応形質進化の遺伝子基盤解明」のほか、同基盤研究A、農林水産省アグリゲノムプロジェクト等の支援を受けて実施されました。

発表雑誌

和名: 米国科学アカデミー紀要
英名: Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America
略称: PNAS
掲載巻号: Volume 108, Issue 44.
論文タイトル: Sex-linked transcription factor involved in a shift of sex pheromone preference in the silkmoth, Bombyx mori.
著者: Tsuguru Fujii, Takeshi Fujii, Shigehiro Namiki, Hiroaki Abe, Takeshi Sakurai, Akio Ohnuma, Ryohei Kanzaki, Susumu Katsuma, Yukio Ishikawa, and Toru Shimada
論文(電子版、Early Edition)へのリンク: www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.1107282108
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問い合わせ先

東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻
教授 嶋田 透
Tel: 03-5841-8124
Fax: 03-5841-8011
E-mail: shimada@ss.ab.a.u-tokyo.ac.jp
東京大学 大学院農学生命科学研究科 生産・環境生物学専攻
日本学術振興会特別研究員(PD)  藤井 告
Tel: 03-5841-5058
Fax: 03-5841-8028
E-mail: fujii@ss.ab.a.u-tokyo.ac.jp

用語解説

注1 性フェロモン

蛾類の性フェロモンは一般に揮発性の低分子化合物であり、同種の異性に性行動を誘起する。カイコでは、雌成虫がフェロモン腺で合成したボンビコールというフェロモンを空中へ放出し、雄成虫がそれを触角で感知することで配偶行動が起きる。ボンビコールは、16個の炭素原子を含む直鎖のアルコールである。カイコのフェロモン腺に微量で存在するボンビカールは、このボンビコールが酸化されて生じるアルデヒドである。

注2 転写因子

遺伝子の上流に存在する固有の塩基配列を認識して結合し、当該遺伝子の転写活性を制御するタンパク質。

注3 ボンビコール受容体

雄成虫の触角に存在する特定の嗅神経細胞の細胞膜に存在するタンパク質であり、細胞外のボンビコールを受容し、その刺激を細胞内に伝達する機能を持つ。