東京大学大学院農学生命科学研究科の高橋らの研究グループは、動物の成長や発達を促進するホルモンの一つ「インスリン様成長因子 (IGF) 」の受容体に、長時間かけて作用を誘導する特別な仕組みが内蔵されていることを、世界で初めて明らかにしました。
IGFはインスリン(注2)とよく似た構造のホルモンです。一般に、インスリンは、食事摂取に応答して短時間で分泌され、主に糖や脂質などの物質代謝を調節しています。これに対し、IGFは、動物の発達段階に応じて分泌量がゆっくりと増減し、増殖や分化といった長い時間を要する細胞応答を促進します。しかし、このように発現に長時間を要するIGFの作用がどのような仕組みで誘導されるのか、これまで明らかではありませんでした。今回、高橋らは、標的の細胞が細胞外のIGFの存在を感知すると、これを刺激としてIGF-I受容体とイノシトールリン脂質をリン酸化するホスファチジルイノシトール3キナーゼ(注3)が結合し、IGF-I受容体と結合しているこの酵素の活性が、細胞増殖を促進するためのシグナルを長時間伝達し続けていることを示しました。
今回の研究成果は、家畜など食資源の成長促進技術の開発に役立つ可能性があります。また、IGFはがん発症にも関与することが明らかにされていますので、今回明らかとなったIGF-I受容体とホスファチジルイノシトール3キナーゼとの結合を標的とした新しいタイプの抗がん剤の開発も期待できます。
細胞がIGFの存在を感知すると、細胞の内部で一過的なシグナルが伝達されることが知られていたが(図中左)、これとは別に長い時間にわたってIGFの存在をモニターしてシグナルとして伝達する仕組みの存在が明らかとなった(図中右)。発表者のグループは、2つのシグナルが合流することで細胞周期の進行に重要なCyclin D1というタンパク質の量が維持され、細胞が増殖できるようになることを見出した。 (拡大画像↗)
動物の成長や発達には、様々なホルモンが必須であることが明らかにされています。その一つ「インスリン様成長因子(IGF)」は、卵や精子の形成、受精卵の発生、生体の発達・成長・成熟、物質代謝の調節、老化の抑制など、一生にわたって重要な役割を果たすホルモンです。身近な例として、イヌには様々な大きさがありますが、IGFをたくさん分泌する犬種ほど大きいことが報告されています。また、成長ホルモン(注4)は、飼育牛の発達を促進する薬剤として米国で広く利用されていますが、この成長促進作用の大部分は成長ホルモンの影響によって体内で生産・分泌が増加したIGFによるものと考えられています。
IGFは、その名前が示す通り、インスリンとよく似た構造のホルモンです。インスリンは、主に血糖値の上昇などに応答して膵臓から分泌され、血糖値を下げ、物質代謝の同化反応を促進しています。食後、数分から数時間という短い時間で分泌され、速やかにその効果を発揮します。これに対して、IGFは、成長ホルモンや栄養状態の影響を受けながら、動物の成長・発達段階に応じて生産・分泌量がゆっくり増減するという特徴を有しています。主な作用も、様々な種類の細胞の増殖や分化などを促進するなど、インスリンとは異なり生理活性の発現には長時間を要します。
インスリンとIGFは、それ自体の構造が似ているだけでなく、それらが結合する受容体の構造も類似しています。いずれも、細胞膜を貫通している構造の受容体で、細胞膜の外側にインスリンやIGFが結合する部位を、内側にチロシンキナーゼ(注5)活性を持つ領域を有しています。インスリンやIGFが受容体に結合すると、細胞内のチロシンキナーゼが活性化し、細胞内の様々な基質をリン酸化、これが引き金となってシグナル系下流に信号が伝わり、細胞応答が起こります。インスリンに関しては、糖などの代謝が調節される細胞内シグナル伝達機構が、かなり詳細に明らかにされています(注6)。しかし、IGFのシグナル伝達は、インスリンと共通している部分については解明されていますが、IGFに特徴的な長時間を要する細胞応答がどのような機構で引き起こされるのか、謎でした。
今回、高橋らは、細胞がIGFの存在を感知すると、細胞膜に存在するIGF-I受容体がホスファチジルイノシトール3キナーゼ(PI3K)と呼ばれるイノシトールリン脂質をリン酸化する酵素と細胞内で長時間にわたって複合体を形成し、この複合体を介して下流のシグナル伝達経路が長い時間活性化し続ける、そして、この仕組みによりIGFに応答した細胞増殖の誘導が起こることを明らかにしました。具体的には、IGFがIGF-I受容体に結合すると、受容体に内蔵されたチロシンキナーゼが活性化し、受容体自体のほぼ末端に存在しているチロシン残基がリン酸化されます。この部分がPI3Kとの結合部位として機能し、細胞がIGFにより刺激されている間、「IGF受容体- PI3K複合体」が維持されます。これによって、PI3Kが細胞膜の近くに存在することとなり、細胞膜中の脂質の一つであるホスファチジルイノシトールの3位の水酸基をリン酸化する反応が進行します。続いて、このリン酸化脂質に結合する性質をもつ様々なタンパク質が細胞膜付近に集合します。この中には、細胞膜の近くに移動すると活性化する酵素などが含まれており、これらの酵素反応のスイッチが長時間にわたって入力された状態になります。この長時間維持されたシグナルにより細胞増殖が誘導されます。
今回の研究は、長い時間作用して細胞の増殖を促進するというIGFに特徴的な働きを可能とする分子機構を世界に先駆けて明らかにしたという点で、学術的な価値が高いといえます。今回の研究成果は、家畜などの食資源の成長促進を目的とした技術開発に役立つ可能性があります。また、IGFの働きが過剰に強められるとがんの発症や悪性化の危険因子になることが近年明らかとされているので、今回明らかとなった仕組みを標的とした新しい抗がん剤の開発も期待されます。
東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 動物細胞制御学研究室
准教授 高橋伸一郎
Tel: 03-5841-1310
Fax: 03-5841-1311
E-mail: atkshin@mail.ecc-u-tokyo.ac.jp