発表者
白須未香(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任助教/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト・グループリーダー)
吉川敬一(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員(当時))
高井佳基(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 学術支援職員)
中嶋藍(福井大学医学部医学科高次脳機能領域 学術研究員)
竹内春樹(福井大学医学部医学科高次脳機能領域 客員准教授)
坂野仁 (福井大学医学部医学科高次脳機能領域 特命教授)
東原和成(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 教授/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト研究総括)

発表のポイント

◆トイレタリー製品や香粧品に頻繁に使われるムスクの香りのひとつであるムスコン(注1)という匂い物質(注2)を選択的に認識する嗅覚受容体(注3)を、マウスとヒトで初めて発見しました。

◆マウスの1063個の嗅覚受容体のうち、ムスコン受容体は今回発見した受容体を含むたった数個であり、非常に少数の嗅覚受容体で感知されていることがわかりました。

◆マウスにおいて、ムスコンの情報は、嗅覚の一次中枢である嗅球(注4)の中の、極めて限局した領域に入力されて高次脳へ伝わっていること、を見出しました。その領域を破壊すると、ムスコンを感じない嗅盲マウスになりました。

発表概要

日常生活において、香りは生活の質を高める重要な要素のひとつとなっています。多々ある香りの成分の中でも、ムスク系香料は、香粧品に広く用いられる魅惑的な香気をもち、動物種を越えてフェロモン様の生理作用をもつという興味深い性質があります。しかし、ムスク系香料はどのような嗅覚受容体(センサータンパク質)で認識されて、脳のどの部分に情報が伝わるのか、生物学的に解明されていない点が多くありました。
 東京大学大学院農学生命科学研究科の東原和成教授らの研究グループは、ムスク系香料の代表的な匂い物質、ムスコンが、一般的な匂いと比較すると極めて少数の嗅覚受容体で受容されること、また、ムスコンの匂い情報が、嗅覚の一次中枢である嗅球の限局された特定の領域に入力され、高次脳へと伝わることを明らかにしました。本研究で同定されたムスコンを認識するマウスおよびヒトの嗅覚受容体は、特定の構造を有するムスク香料のみを認識します。本研究の成果は、産業的に有用な新規ムスク香料の開発につながると期待されます。

発表内容

図1 ムスク系香料の化学構造
(拡大画像↗)

これまでに合成されてきたムスク系香料は、その構造から、ニトロムスク、大環状ムスク、多環状ムスク、脂環式ムスクに大別される。

図2 マウスの嗅球におけるムスコン応答糸球体の位置(拡大画像↗)
 マウスにおいて、ムスコンは、嗅覚受容体MOR215-1で認識され、その匂い信号は嗅球内側前方領域の糸球体(緑色)に伝わる。

 

ムスクの香りは、有史以前からインドや中国において、薬や香油等に用いられてきました。この香りは、香調表現用語でMusky(ムスキー、動物臭、温かみがあり肉感的で艶っぽい香調)と表現され、他の香料にはない官能的な匂いを有するため、現代でも、フレグランスから洗剤に至るまで多くの香粧品に用いられています。もともとムスクは、ジャコウジカ、ジャコウネコなどの臭腺(香嚢(こうのう))を腹部から切除し、乾燥することにより得られてきました。ジャコウジカの雄は発情期になると、臭腺から出るこの匂いで自分のテリトリーを示し、雌を呼び寄せるといわれています。またムスクの香りは、ヒトに対して、性ホルモンの量の変化を誘発するなどの生理作用を持つという報告もあります。1926年に化学者レオポルト・ルジチカにより、ジャコウジカの分泌物の主要香気成分が大環状ケトン構造を有することが見出され、ムスコンと名付けられました。しかし、現在はジャコウジカの捕獲が禁止されているため、天然のムスコンは非常に希少となっています。また、工業的側面からみても、ムスコンは合成が非常に困難であったため、香粧品に用いるムスクの香りとして、ムスコンの香気を模した数百種類のムスク系香料(図1)が合成されています。

匂いを認識する嗅覚受容体(センサータンパク質)をコードする遺伝子は、マウスとヒトの染色体上に、それぞれ1063個と396個あることが知られています。この10年くらいで、ひとつひとつの嗅覚受容体がどの匂い物質を認識するかという研究が進み、受容体と匂い物質は複数対複数の組み合わせで認識されていることがわかっています。しかし、未だに、全体の数十%ほどの受容体の匂いリガンド(注5)が同定されているだけで、ムスコンの受容体は見つかっていませんでした。ムスコンは、産業的有用性をもつだけでなく、さまざまな動物で生理的作用をもち、特徴的な大環状化学構造をもつので、何個くらいの嗅覚受容体で、どのようなメカニズムで認識されて、脳のどの部分に情報が伝わるのか、生物学的にも大変興味がもたれていました。そこで、研究グループはムスコンの受容体を同定し、嗅覚神経系でのムスク系香料の情報処理メカニズムを解明することを目指しました。

まず、マウスを用いて、嗅覚一次中枢である嗅球上の、ムスコンに応答する糸球体(しきゅうたい)(注6)を探索しました。既存の手法では測定不可能だった領域の匂い応答イメージング手法を確立したところ、内側前部の限局した領域の一部の糸球体のみがムスコンに応答すること(ムスコンの応答糸球体)がわかりました(図2A)。また、免疫組織化学的手法を用いても、ムスコンの匂いに応答したことを示すシグナルが、同様の領域に見られました。さらに、その領域を外科的に除去したマウスはムスコンを感知できませんでした。つまり、ムスコンの匂い信号は、せいぜい数個の嗅覚受容体を介して脳に伝わって認知されていることを示しています。興味深いことに、ムスコンとは異なる構造を持つニトロムスク、多環式ムスク、大環状エステルも、ムスコンの応答糸球体とは異なるものの、嗅球内側前方の領域で受容されます。ムスク系の香り全体を象徴する動物的かつ官能的な香調は、嗅球の内側前部という特定の領域の活性化により生み出されている可能性があります。

次に、ムスコン応答糸球体に投射している嗅神経細胞に発現している嗅覚受容体を探索したところ、MOR215-1という受容体が見つかりました。実際に、MOR215-1を発現させたアフリカツメガエル卵母細胞やHEK293培養細胞はムスコンに応答を示しただけでなく、MOR215-1を発現する嗅神経が投射するマウスの糸球体もムスコン刺激に対して応答を示しました(図2B)。また、MOR215-1のアミノ酸配列に類似したアミノ酸配列をもつヒトの受容体OR5AN1が、ヒトのムスコンの受容体であることも初めてわかりました。MOR215-1は、生分解性(注7)に優れていて産業界でも重用されている大環状ケトン構造を持つムスク香料のみを認識し、他のムスク系香料やアミン、アルコール、アルデヒド、酸、エステル、ラクトンなどの香料には応答を示しませんでした。MOR215-1受容体の匂い応答特性を利用した香料スクリーニング系を利用することで、産業的に有用なムスク系香料の新規開発につながると期待されます。

本研究は、文部科学省特定領域研究「セルセンサー」と独立行政法人科学技術振興機構(JST)のERATO東原化学感覚シグナルプロジェクトの研究の一環として行われました。ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクトでは、匂い・フェロモン・味物質などの化学感覚シグナルが、どのようにして情動や行動に至るのか、そのメカニズムを分子レベルで解き明かし、「医療」や「健康」、「食」といった産業展開に繋がる成果の蓄積を目指しています。

発表雑誌

雑誌名
Neuron
論文タイトル
Olfactory receptor and neural pathway responsible for highly selective sensing of musk odors
著者
Mika Shirasu, Keiichi Yoshikawa, Yoshiki Takai, Ai Nakashima, Haruki Takeuchi, Hitoshi Sakano, and Kazushige Touhara
DOI番号
10.1016/j.neuron.2013.10.021
アブストラクト
http://www.cell.com/neuron/abstract/S0896-6273(13)00925-2

問い合わせ先

<研究に関すること>
東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
教授 東原 和成
Tel: 03-5841-5109
Fax: 03-5841-8024
研究室URL: http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/
ERATO URL: http://www.jst.go.jp/erato/touhara/index.html

<JST事業に関すること>
坂本 祥純(サカモト ヨシズミ)
科学技術振興機構 研究プロジェクト推進部
〒102-0076 東京都千代田区五番町7 K’s五番町
Tel: 03-3512-3528
Fax: 03-3222-2068
http://www.jst.go.jp/

用語解説

注1 ムスコン(Muscone)
正式名称は、3-methyl-cyclopentadecanone(化学式C16H30O)で、大環状ケトン構造を有する化合物。本構造を決定したルジチカによれば、環状ケトン構造を有する化合物は、環を構成する炭素数が9以下は樟脳の香り、10から13ではウッディな香り、14以上からムスコンが有するムスク様香気があらわれ、20になると無臭になる。
注2 匂い物質
匂い物質は、分子量300程度までの揮発性低分子化合物であり、自然界には数十万種類存在するといわれている。私たちが生活する上で、実際に嗅ぎわけることができるのは、その中の数千種類であるが、熟練した調香師になると一万種類もの匂いを嗅ぎわけることができるそうである。匂い物質は、分子の官能基、炭素数、不飽和度などにより、ある程度その匂いの質が決まっている。しかし、全く異なる構造を持つのに匂いの質が似ているものや、光学異性体同士で閾値が異なるものが存在するなど、分子構造と匂いの質の関係は一筋縄では説明できない部分も多い。
注3 嗅覚受容体
鼻腔内の嗅上皮の嗅神経細胞に発現していて、匂い物質を認識するタンパク質。細胞膜を7回貫通する構造をもち、Gタンパク質共役型受容体ファミリーに属する。匂い物質が嗅覚受容体に結合すると、Gタンパク質の活性化を経て、嗅神経細胞が電気的に興奮する。嗅覚受容体をコードする遺伝子は、ヒトで396個、マウスで1063個存在する。
注4 嗅球
マウスでは大脳前部に左右一対に位置する2~3 mm程度の大きさの球状の組織。嗅球は、嗅覚の一次中枢にあたり、嗅神経細胞からの匂い情報を統合して、嗅覚の高次中枢へと伝達する役割を持つ。同一の嗅覚受容体遺伝子をもつ嗅神経細胞群の軸索は、片側嗅球の数個の糸球体(注6)と呼ばれる構造に収束して投射する。
注5 匂いリガンド
特定の嗅覚受容体に結合して、その受容体を活性化する匂い物質。
注6 糸球体
嗅球(注4)の表層を取り巻くように存在する直径100 µm(マイクロメートル)ほどの球形構造を糸球体とよぶ。嗅神経細胞の軸索末端は、糸球体内で、嗅覚の二次神経とシナプスを形成する。
注7 生分解性
物質が微生物などに分解される性質。