発表者
稲垣 秀晃(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 特任研究員;当時)
清川 泰志(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 助教)
田母神 成行(長谷川香料株式会社 技術研究所 研究員;当時)
渡邉 秀典(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授)
武内 ゆかり(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 准教授)
森 裕司(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 教授;当時※)
※森 裕司先生は、平成26年9月17日(水)にご逝去されました。

発表のポイント

◆危険を伝えるためにラットが放つ匂いの中から、それを嗅いだ別のラットの不安を増大させるフェロモンを同定しました。

◆フェロモンは2種類の化合物の混合物で、単独では効果がなく、2種類がそろって初めて効果を発揮することを明らかにしました。

◆本研究により、哺乳類フェロモンの中枢作用機構への理解が深まり、フェロモンを用いたネズミなどの害獣を制御する手法の開発などへの応用が期待されます。

発表概要

危険を感じた動物が発する匂いの存在は、マウスやラットといったネズミだけでなく、シカ、ウシ、ブタや、私たち人間においても報告されています。そのため、危険を伝える匂いは哺乳類にとって重要なものと考えられており、動物種によっては警報フェロモンと呼ばれています。
 今回、東京大学大学院農学生命科学研究科の森裕司教授(当時※)、武内ゆかり准教授および清川泰志助教を中心とする研究グループは、ラットが危険を伝える匂いに含まれる4メチルペンタナール(4-methylpentanal、注1)とヘキサナール(hexanal、注2)の2種の混合物が、それを嗅いだラットの不安を増大させるフェロモン(注3)であることを明らかにしました。これらの化合物は、ラットの肛門周囲部より放出される多くの物質の中から抽出し、その匂いを嗅いだラットの、筋肉などを急激に収縮する聴覚性驚愕反射(注4)を測定することで同定しました。また、いずれか単独では効果がなく、2種類がそろって初めてラットの不安を増大させる効果を発揮することが判明しました(図1)。
 ラットのフェロモン同定は本成果が初めてであり、同時にフェロモンを介したコミュニケーションの概要を明らかにすることができました。今後は、今回得られた知見をもとに、害獣であるネズミの制御法としてフェロモンを適用するという新たな技術開発に寄与することが期待されます。また、危険を伝える匂いの存在と効果は、人間を含む哺乳類でもいくつか報告されていることから、動物の嗅覚コミュニケーションを理解することにも役立つ可能性があります。

発表内容


図1 危険を伝えるフェロモンはラットの肛門周囲部より放出されて、それを嗅いだラットの不安を増大させる。(拡大画像↗

私たち人間を含む社会的な動物は、さまざまな手段を用いてお互いがコミュニケーションをとりながら暮らしています。なかでも視覚の弱い哺乳類では、嗅覚を利用したコミュニケーションが重要な役割を果たしています。古くから、「一度ネズミがかかったネズミ捕り器には、二度とネズミがかからない」ということは知られていましたが、長らくその理由は謎のままでした。東京大学大学院農学生命科学研究科の森裕司教授(当時※)、武内ゆかり准教授および清川泰志助教を中心とする研究グループは、この現象について、ネズミ捕り器にかかったネズミが嗅覚を使って他のネズミに危険を伝えていると仮説を立てました。危険(ストレス)を感じた動物が発する匂いの存在は、マウスやラットといったネズミだけでなく、シカ、ウシ、ブタや、私たち人間においても報告されています。そのため、危険を伝える匂いは哺乳類にとって重要なものと考えられており、動物種によっては警報フェロモンと呼ばれています。

今回、研究グループは、ラットが危険を伝える匂いに含まれる4メチルペンタナール(4-methylpentanal )とヘキサナール(hexanal)の2種類の混合物が、それを嗅いだラットの不安を増大させるフェロモンであることを明らかにしました。これまでの研究により、麻酔したラットの肛門周囲部を電気刺激することで、危険を伝える匂いを放出させられることや、その匂いを嗅いだラットの不安が増大すること、などが判明していました。このため、同方法によって8頭のラットから放出させた危険を伝える匂いを捕集し、匂いを分子量(大きさ)によって3つに分けました(分画)。そして、3つのうちどれがラットの不安を増大させるかを、匂いを嗅がせたラットの聴覚性驚愕反射を測定することで判定しました。不安を増大させたものをさらに2つに分画し、その効果を最後まで保持し続けたもの(最終的には50頭のラットから放出された物質を分画)に含まれる物質を解析しました。その結果、4メチルペンタナールとヘキサナールが含まれていることを突き止めました。

これらの物質を化学合成し、さらなる解析を行った結果、それぞれの化合物を単独で嗅いだ場合にはラットの不安は増大しないものの、2種類を混合物として嗅いだ場合には不安が増大することを発見しました。また、この2種類の混合物は微量で効果を発揮することや、あらかじめ抗不安薬をラットに投与することでその効果がなくなること、特別なケージで2種類の混合物を嗅がせると隠れ家から外の様子を窺う警戒行動が増加すること、などが明らかになりました。これらの結果より、この2種類の混合物はそれを嗅いだラットの不安を増大させるフェロモンであることが判明しました。

次にこのフェロモンが不安を増大させるメカニズムを調べました。その結果、4メチルペンタナールは鋤鼻器(注5)という人間にはない特殊な器官で嗅がれていることが明らかとなりました。一方ヘキサナールは、人間がさまざまな匂いを嗅ぐのと同じように、鼻粘膜(嗅上皮)で嗅がれていることが示唆されました。そして、2つの化合物は同時に嗅がれて初めて、不安と関連すると考えられている分界条床核という脳内の神経核(注6)を活性化することが明らかとなりました。しかし、2つの化合物はたとえ同時に嗅がれても、ストレスに対処するための司令塔である室傍核という神経核を活性化しなかったため、ラットにとってこれらの化合物を嗅ぐこと自体はストレスではなく、不安を増大させることでその後適切に振る舞えるようになることが示唆されました。

研究グループは、ラットのフェロモンを初めて同定するとともに、そのフェロモンを介したコミュニケーションの概要を明らかにしました。また、本成果は「異なる2つの器官で受容された情報がどのようにして脳内で統合されるか」という嗅覚研究において未解明の問題に、今後、最適な研究材料を提供してくれることでしょう。さらに実用的な観点からは、本成果は害獣であるネズミの制御法としてフェロモンを適用するという新たな技術開発に寄与することが期待されます。また、ラットは危険を伝える匂いに対して私たち人間と同じような周囲を注意深く窺う反応を示すことから、本研究成果は私たち人間の嗅覚コミュニケーションを理解することにも役立つ可能性があります。

本研究は、科学研究費補助金(基盤研究(S)、若手研究(A))の支援を受けて行われました。また、本成果は応用動物科学専攻獣医動物行動学研究室、応用生命化学専攻有機化学研究室および長谷川香料株式会社総合研究所による共同研究の成果です。

発表雑誌

雑誌名
Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America(オンライン版:12月15日)
論文タイトル
Identification of a pheromone that increases anxiety in rats
著者
Hideaki Inagaki, Yasushi Kiyokawa, Shigeyuki Tamogami, Hidenori Watanabe, Yukari Takeuchi, Yuji Mori
DOI番号
10.1073/pnas.1414710112
論文URL
http://www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.1414710112

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 獣医動物行動学研究室
准教授 武内 ゆかり
Tel:03-5841-3099,03-5841-7577
Fax:03-5841-8190
研究室URL:http://www.vm.a.u-tokyo.ac.jp/koudou/

用語解説

注1 4メチルペンタナール(4-methylpentanal)
アルデヒドの一種であるが、これまでほとんど利用されていない化合物。人間が嗅ぐとスウィートグリーン様の匂いを感じる。
注2 ヘキサナール(hexanal)
アルデヒドの一種で、香料や建材の防腐剤として使われているが、一部の昆虫においては警報フェロモンとして作用することが知られている。人間が嗅ぐとフルーティグリーン様の匂いを感じる。
注3 フェロモン
「生きている個体から放出され、同種の他個体が受容したときに特定の反応を非常に微量で誘起し、動物の進化を考える上で適応的な機能を持つコミュニケーションに利用される物質」と定義される。
注4 聴覚性驚愕反射
人間を含む多くの動物種に見られるもので、突然の大きな音に対して顔や全身の筋肉が急激に収縮するという反射。動物の不安が増大すると、反射が大きくなることが知られている。
注5 鋤鼻器
哺乳類において、鼻腔の中央で鼻腔を左右に分ける軟骨(鼻中隔)の底部に位置する器官で、多くのフェロモンを受容すると報告されている。
注6 神経核
脳の中で、神経細胞体が密集している部位。