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東大農学部の歴史 東大農学部の歴史

農学部の黎明 - 駒場農学校

治のはじめ、駒場の地に農学校が設立され、日本の近代農学の発展の礎となった。明治11年1月24日、農学校開校式の祝辞の中で、大久保利通は、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ、と述べた。東京大学農学部の歴史は、駒場の農学校、さらにその前身である内藤新宿の農事修学場にさかのぼることができる。農学校はその後、正式に駒場農学校と呼ばれるようになり、明治19年、東京山林学校と合併して東京農林学校となった。

年表中の写真は、クリックすると、詳細画像が表示されます。
農学部の黎明時代については、こちらに詳しい解説があります。

月日 できごと メモ
明治3年
(1870年)
9月 民部省に勧農局を設け開墾、種芸、養蚕、編輯、雑務の五課を置いた 翌明治4年4月、勧業局と改正され、明治4年7月、民部省廃止により、大蔵省に勧業司を設置。その後、勧業寮、勧農寮などの変遷を経て、明治7年1月、前年11月に設置された内務省の所管となり、勧業寮となった。 詳しくはこちら...
明治5年
(1872年)
10月 大蔵省が内藤新宿に試験場を設けた 江戸時代の大名内藤家の下屋敷と千駄木、新宿の周辺地17万8千坪(約59ヘクタール)を購入し、近代農業の振興を目的として試験場を設置し、植物の栽培、害虫駆除、牧畜などの研究を行った。この地は、現在の新宿御苑となっている。
明治7年
(1874年)
1月 内藤新宿試験場に勧業寮農務課を置き、農務課中に農学掛を置いた 勧業寮に農務、工務、商務、編纂の4課を設け、農務課の中に農学掛を置いた。農学掛は、内外の農書を蒐集し、有益な説は実地に試験し、また農産品類を陳列して衆覧に供することを目的とした。
4月 内藤新宿試験場内に農事修学場を設置 内藤新宿試験場は、内務省の管轄となり、そこに新しい教育施設である農事修学場が設置された。これとあわせて、農学、獣医学、農芸化学、農学予科、農学試業科などの教師を海外より招聘する計画が議決され、学校設立、生徒教育、学場規則などの数十項が作成された。当時、試験場では、農業生を募集し、牧畜や農器械使用等の実際的な教育が行われていたが、本格的な農学校の設立に専念することになり、農業生はまもなく廃止される。
10月 内藤新宿試験場内に農業博物館を設置 当初は縦覧場と呼ばれ、一般に開放されたが、農学生の教育のために参考すべき品類を蒐集する役割もあった。
明治8年
(1875年)
9月 農学掛を第六課に改称、学校掛、農業博物館掛、分析掛を設置 勧業寮の中に10課を設けた。第六課は3つの掛からなり、学校掛は、農学生の教育、関連学校の設置、農業博物掛は、内外農産物、農芸品の蒐集と展覧、分析掛は、肥料の調査、土質分析その他の分析事務を担当した。
明治9年
(1876年)
5月 農事修学場に農学、獣医学の専門科と予科、試業科を設けた 当時の農事修学場は、13歳以上15歳以下の者が入学する予科(修学期間2年)、予科を終えた者が入学する専門科(修学期間3年)、各府県から1名選抜された、すでに実地経験がある者で五反歩以上の土地所有者およびその子弟が入学する農業試業科(修業期間3年)から構成されていた。専門科は、農学科と獣医学科からなっていた。
5月 農事修学場入学規則、生徒給養規則が制定された 農事修学場入学規則第一条「農事修学場ハ勧業寮ノ所轄ニシテ農学獣医学生徒ヲ教育スル所ナリ」。 
9月 第六課を農学課に改称  
10月〜11月 富田禎次郎の招聘により英国人教師5名が逐次来日 外国人教師は、大久保利通内務卿がヨーロッパの全権公使に依頼して、人選に取り組み、農学教師ジョン・デイ・カンスタンス、農芸化学教師エドワルド・キンチ、試業科教師ジェームス・ベクビー、英語学教師ウイリアム・ダグラス・コックス、獣医学教師ジョン・アダム・マックブライトの5名が選ばれた。農事修学場では、農業試業科以外の講義は英語で行われ、訳官が通訳して生徒に伝えた。雇用された外国人教師は、当初はすべて英国人で任期は3年であった。ベクビー以外の4名は任期中あるいは任期を延長して指導にあたった。
10月9日〜11日 入学試験を実施 農学科志願者49名中20名、獣医学科志願者57名中30名を選抜。試験は、学科試験と体格診査からなり、学科試験は、国文読書(日本外史)、英語、究理学(物理学)初歩、算術、地理学、博物学大意、化学大意であった。なお、実際の入学者は、農学科20名、獣医学科28名であった。翌年の1月、各府県で実施された試験により、さらに予科生27名、試業科生29名が入学した。入学者合計104名中88名(試業科以外では75名中68名)が士族であった。
11月 農事修学場を駒場野に移転することを決定 農事修学場は狭く、またとくに外国人教師が、近くに遊里があって教育に適さないと主張したためと言われる。駒場野は、もともと将軍の狩場で、幕末には西洋流の調練を行い、明治には明治天皇が諸軍を率いて閲兵を行わせたこともあった。その後、大蔵省で牧畜の試験場にあてようとしたこともあったようである。正式な地名は、東京府荏原郡上目黒村駒場野。
明治10年
(1877年)
1月 現在の北区西ヶ原に内務省樹木試験場創設 明治3年より、ドイツのエーベルスワルデ山林学校で学び、明治8年に帰国した松野はざまは、山林学校の設立を企画するが、なかなか実現せず、とりあえず、樹木試験場を設立することになった。当初は、内務省地理局山林課の管轄下に置かれ、樹苗の栽培、風土の適否と成長の状態、木材の性質効用等の調査を行うとともに、当時皆無だった林業技術官の養成を行った。
2月 農事修学場の授業開始 1月、内藤新宿の農業博物館が仮教場とされ、2月1日から農学・獣医学の授業が開始された。その後、予科・試業科の授業が近隣の建家(寺など)で開始された。
2月〜3月 海外から生徒教授用の大量の農書、器械、薬品等が到着 農書2,593冊、器械232個、気象器械16個、瓦斯器械1式、化学器械369個、同薬品226種、獣医器械53個、同薬品121種、馬体解剖模造1個、附属模造7個が到着した。また、試業科生徒教授用の器械大小65品を製作した。
7月〜10月 外国人教師ジェームス・ベクビーが試業科の生徒を率い、駒場野5万3千坪を開墾 駒場野は、すでに明治4年におよそ8万坪が開墾され、同6年からは、一部が牛馬の放牧場として利用されていたが、さらに、外国人教師ジェームス・ベクビーは、試業科の生徒を率い、英国農具の使用法、馬耕の技術等の演習を行って、駒場の荒蕪地5万3千坪の開墾を行った。農学校の土地は、明治10年末には11万3333坪余に達しており、校地の半分近くを生徒の実労で整えたことは注目に値する。
9月 生徒寄宿舎および農学教師館が落成した この年の2月、逐次校舎の造営が始まった。寄宿舎や教師館ができるまで、生徒は、試験場の寄宿舎や近隣の建家を仮寄宿舎とし、外国人教師は築地の精養軒や民家を借り入れ官費で宿泊させていた。生徒寄宿舎は、2階建ての洋風建物で、当時としては非常に立派なものであった。甲州街道から駒場野に至る道を拡幅し、馬車道を造る工事もこのころ行われた。
10月 農事修学場が農学校と改称  
10月 農学校規則、農学校入学規則、生徒給養規則、分掌事務、教則及び学科順序などが定められた 農学校は、予科、農学本科、獣医科、農芸化学科、試業科の5科とするとした。生徒給養規則には、当時の生徒に対する手厚い手当が規定されている。学科は午前8時から午後4時半までが基本であった。分掌事務については、学務掛、化学掛、畜病掛、植医掛、耕牧掛、博物掛、書器掛、事務掛を置くことが規定された。
11月 各科生徒を官費生と私費生に分け、官費生の定員を200名とし、さらに私費生を募集した 農事修学場の第1回の入学生は、全員官費であった。学期末の試験の結果、優秀な私費生は公費生となったこともあるようである。
12月 大久保利通内務卿が、明治8年、9年の2カ年分の賞禄金5,423円96銭8厘を内務省に寄付 この金額を備蓄金とし、利子をもって農学校の優等生に給与する褒賞費にあてた。この備蓄金は、東京帝国大学の農学部まで受け継がれた。 
12月 農学校、駒場野に移転 年の瀬の迫った12月14日より着手し、昼夜兼行で31日に完了したという。また、この月、本校舎、予科教場、その他教師館、官舎、湯沸場、井戸、門などの付属建物が落成した。翌年1月7日より、事務はすべて駒場野において取り扱われることとなった。 
明治11年
(1878年)
1月24日 農学校開校式 明治天皇や政府高官臨席のもと、盛大に農学校開校式がとり行われた。開校を熱心に推し進めた大久保利通内務卿は、開校の祝辞で、「本邦初の農学校の建築にあたり、農をもって国民の生活を豊かにする事業は、まさに今日この日からはじまるのだ。」と述べた。明治天皇は農芸化学、農学、獣医学の授業風景、作業の様子、博物室を通覧された。式典後は、庶民の縦覧を許した。当日の天気は快晴。開校式の模様を東京日日新聞は、次のように報じている。

「此日校門並に玄関には花飾をなし、門の内外に幾つともなく小旗を掲げたるは如何にも目ざましく、還御の後は衆庶の縦覧を許されし故、四方より集るもの幾千人といふ数を知らざりき」
開校式のときの奉迎の図
開校式のときの奉迎の図
「駒場農学校等史料」より
開校のころの農学校正門
開校のころの農学校正門
当時の正門は、敷地の北側の代々木村に通じる場所にあった。門柱は杉の巨材で、1500円を費やし、1本は代々木から、1本は秩父山中からもってきたものである。その後の正門の移転の際には、これらの巨材の表面を削って再利用した。この場所は、移転後、通用門となり、その後、農学部が弥生に移った後は前田邸の正門(現在の駒場公園の正門)がその南側に置かれた。写真の「駒場橋」には「紀元二千五百三十七年」(明治10年)の字が見える。甲州街道から農学校に至る馬車道を整備するときに造られたものである。
開校のころの農学校本校教室開校のころの農学校本校教室

本校教室は、正門の奧にあった。道の両側に檜は、その後並木道を形成することになる。開校のころは、道の両側が見本園になっていたが、その後、植物園になった。本校教室は、明治30年に消失。玄関両側の木は山椿、左奧の建物は、石造りの倉庫である。
1月 農場開設 もともと、駒場野に広大な土地を求めたのは、学内に農場を確保することが目的であった。農学校では、本邦農場・泰西農場に区分された圃場様式をとった。本邦農場では、主として我が国慣行の耕作法、泰西農場では、主として西洋の耕作法により、それぞれ作物の栽培を進め、農事の改良に寄与した。こうした本邦・泰西といった農場の区分は、当時における外国式農業輸入時代を偲ばせるものがある。その後、混同農場が発生し、混同農事ということばが作られ、混同農会という農会まで生まれた。農科大学以降、農場における耕地は、畑地、水田、茶園、桑園、果木園、放牧地等に区分利用され、それぞれ実習、研究に用いられた。
泰西農場
泰西農場
左端の建物はベクビーの官舎。さらに、生徒控所、蹄鉄所、大農具置場、小農具置場、訓導詰所、種子室、根菜置場、牛舎などがある。
本邦農場と学生寄宿舎
本邦農場と学生寄宿舎
敷地の東方にあった、桑園と麦畑が広がる本邦農場。左奧の建物は第一生徒寄宿舎、右奧の建物は学生寄宿舎である。
左から博物標本室、気象台、植医科
左から博物標本室、気象台、植医科
これらは敷地の西方にあった。植医科教室は、その後、官舎とし使用され、さらに移築されて学生生徒集会所として使用された。
1月 群馬県の農業指導者船津傳次平が雇用される 当時農学校の在校生は、明治9年から入学を許可された第1期生106名(すべて官費生)と私費生42名で、教職員は、校長のほか、英国人教師5名、助教(通弁)5名、その他事務職員、雇員となっていた。また、11年1月には、群馬県赤城山麓で農業指導を行っていた船津傳次平が雇用された。当時、外国人教師だけでなく、優秀な人材を全国に求めていたところ、大久保利通の知るところとなり、試業科教師に登用され、ベクビーの指導する泰西農場に対し、本邦農場の指導を行った。ときに船津は46歳。船津には、ベクビーの農業施設の利害得失を監査させるかたわら、試業科生徒に日本固有の農業を教授させることとした。その後、井上馨らにより駒場農学校で大農法の実用が要求されると、船津は、日本固有の農法の必要性を訴え、これに反対する。そのことの真偽、またそれが原因であったかどうかは諸説あるが、明治18年、船津は駒場農学校を辞職し、翌明治19年、農商務省甲部普通農事巡回教師となり、農学校時代も含め、生涯を通して、沖縄を除く各府県に出かけ、各地の農民に農事改良の必要性を説いた。晩年は、西ヶ原農事試験場技手となり、明治31年6月15日66歳の生涯を閉じた。「明治三老農」の一人に称されている。船津は、農学校に赴任した当時、一人仮小屋に住まい、講義以外は実地開墾にいそしんだ。あるとき、大久保利通が船津を訪ね、仮小屋での一人住まいは心細かろう、といういたわりの言葉をかけたところ、次の句を詠んでこれに答えたという。「駒場野や 開き残しに くつわむし」
10月 試業科を廃止 在学生は農事見習生とした。勉学を継続する者、内藤新宿試験場に通って農産製造植物栽培を行う者などがいた。
明治12年
(1879年)
5月 内務省内に山林局を設置、その一分科として試験場掛が置かれた  
7月11日 予科を廃止  
明治13年
(1880年)
3月13日 最初の卒業証書の授与 農学科生8名が第1回卒業生となる。卒業後まもなく東北地方の巡回に出かけるが、以後、各地の巡回・見学は農学科生の卒業後の慣例のようになった。また、このとき、農事見習生(元試業科生徒)30名に混同農事修成証書が授与された。6月20日には、農学科の第2回卒業証書授与があり、20名が卒業した。9月14日には、獣医学科生の卒業式が行われた。
4月 植物病理学試験場を設立 三田育種場内にあった害虫試験の事業を農学校内に移し植物病理学試験場を設立、実習生(期間3年)が置かれた。5月に新聞広告で官費生徒を募集し、6月に入学試験を行って20名が合格、7月から授業を開始した。
10月7日 普通農学科開業 普通農学科(修業年限2年)が開業され、これとの関連で農学科は農学本科と改められ、普通農学科を卒業した者のみが本科に入学できるものとした。
このころの学科の増設では、明治11年12月に獣医学科に外科実習科、13年4月には蹄鉄術実習科および植物病理学試験場、13年11月には家畜病院が設立された。
11月 家畜病院開設 家畜病院は、外国人教師J. L ヤンソンによって開設された。もともと、獣医学科では実際の治療研究のための家畜病院があったが、農学校飼育の家畜の数は少なく、そのための病畜が十分に得られなかったこともあり、10月に来日したヤンソンは翌月さっそく病院を開設し、民間の病畜の診察依頼に応じることにした。来院する病畜の数も年々増え、明治17年度の入院病畜数は、馬57、牛10、羊13、山羊2、豚1、犬121であったという報告がある。当時は往診も認めており、実技を重んじて積極的に対応した家畜病院の公開は、社会一般に対する獣医学の普及のためにも大きな成果を挙げたとして高く評価された。
日本獣医学教育史によれば、当時の新聞広告「今般本校獣医係に於て病畜治療施行候間当分牛馬羊犬に限り治療申受渡者は本校に願出すべし但し出願手続は本校に就て見るべし 駒場農学校」
11月 下総種畜場内に変則獣医学科を開設 明治8年、羊毛生産の必要性から下総牧羊場が、また、牛馬の改良を目的として取香種蓄場が設置され、両者は、明治13年1月、下総種蓄場として合併する。これに先立ち、明治10年1月、獣医科が設置され、獣医の実地教育が行われるようになった。農学校の獣医の実習もここで行われた。明治13年11月、新たに日本語で獣医学を教授する学制を設け、農学校獣医学科第1回卒業生である新山荘輔と三浦清吉を教師として変則獣医学科の授業が開始された。
明治14年
(1881年)
4月 農商務省が新設され、それに伴い、農学校、樹木試験場を農商務省へ移管 内務省から農商務省が分かれたことより所管が移った。勧農局は廃止された。なお、このとき、農商務省山林局に学務課が置かれた。7月、農商務省は、太政大臣に、維新以来の乱伐でほとんど全国の林相が衰退しており、林学の研究が必要であることを訴え、10月、山林学校の設立が認められた。
11月4日 外国人教師ケルネル来日 イギリス人教師の後任にはドイツ人教師が招かれた。以後は、これらドイツ人教師によるドイツ農学が次第に主流になっていった。ドイツ人教師には、獣医学のヤンソン、農芸化学のケルネル、農学のマックス・フェスカらがいた(外国人教師についてはこちら)。彼らの任期は、英国人教師たちよりも一般に長かった。ケルネルは、農芸化学の外国人教師として着任し、水田土壤やイネ作肥料の分析・評価研究に多くの業績を残した。ケルネルは日本に永住する心づもりだったが、本国のメッケルン農事試験場長に就任するよう強い要請があり、明治25年に帰国した。明治24年には、初めての名誉教師の称号が与えられた。 駒場の水田は我が国初の試験田であるが、ケルネルはそこで研究を行ったことからケルネル田圃と名付けられ、現在も駒場野公園に残されている。キンチとケルネルの事績、駒場の水田と米作肥料試験については、こちらを参照されたい。
明治15年
(1882年)
2月 下総種畜場内の変則獣医生徒が農学校に編入し、獣医学分科とした 下総種蓄場は、その後三里塚御料牧場となり、さらに成田空港建設によって御料牧場は栃木県に移転するが、その敷地の一部は現在、三里塚記念公園となっている。また、牧場事務所があったところに、三里塚御料牧場記念館があるが、その敷地内に、昭和14年、実地教育開始60周年を記念して建てられた獣医学実地教育創始記念碑がある。
5月22日 農学校を駒場農学校と改称 駒場農学校を描いた当時の錦絵
駒場農学校を描いた当時の錦絵
門内から本校教室までの風景。
9月 駒場農学校職制制定。予備学科(旧普通農学科)、農学科、農芸化学科、獣医学科より編成。授与学位として農学士、農芸化学士、獣医学士の3種を初めて制定  
12月1日 樹木試験場を東京山林学校と改称し開校 山林学校概則 第一条「山林学校ハ農商務省ノ所轄ニシテ山林学諸科ヲ教育スル所ナリ」。
樹木試験場は山林学校の附属となった。初代校長には松野はざまが就任した。ドイツ留学の経験のある松野と中村弥六の2名が教授に加わり、洋書も多数使われたが、外国人教師が雇われることはなかったようである。11月、事務を開始するとともに、第1回入学試験を行い、生徒48名に入学を許可した。設立当初の修業年限は3年で、明治17年の規則改正で5年となった。明治19年には、速成科(修業年限2年)も設けられた。開校式には、農商務卿西郷従道が臨席し、駒場農学校も1日臨時休校して学生の外出を許したという。
明治16年
(1883年)
6月23日 駒場農学校第1回学位授与式を挙行 農学校規則に「専門科卒業後、学術上著シキ顕功アルモノハ之ニ学士ノ称号与フコトアルベシ」とあり、最初の卒業式から3年後に実現した。卒業評点数85点以上の者に学士、それを下回る者に得業士を与えた。平均点が85点以上であっても、1課目以上、その数を下回るときには得業士となったが、得業士であっても学業研究の上試験を出願し、これに合格したときは学士を与えることとした。
明治17年
(1884年)
2月 変則獣医学制度が獣医学別科と改称し、三田種育場(東京三田四国町)に移った 別科の修業年限は、従来の2年から3年に改められた。講義は日本語で行われ、家畜病院も併設された。
    明治17年の農学校の地図
明治17年の農学校の地図
上が南。このころ、敷地面積は、16万5千坪に達した。
明治19年(1886年) 3月 帝国大学令制定。帝国大学(法、医、工、文、理の五分科大学)発足 帝国大学設置の審議の中で、初代文部大臣森有礼は、農学科と山林学科からなる農科大学を帝国大学に含める構想を提示していたが、実現しなかった。
4月 駒場農学校官制、東京山林学校官制が制定され、農商務大臣の直轄校となった 当時、農商務省の所管学校は、駒場農学校、東京山林学校と東京商船学校(現在の東京海洋大学)の3校であった。
7月22日 「東京農林学校官制」が制定され、駒場農学校は東京山林学校と合併し東京農林学校となった。農学部、林学部、獣医学部が置かれ、別に予備科と、各学部中に速成科を設置した 発足時の校長は前田献吉、幹事兼教授奥田義人、教授は松野はざま、中村弥六ら8名、助教10名、その他ヤンソン、ケルネルなどの外人教師がいた。
  東京山林学校と駒場農学校が合併した後、東京山林学校の跡地には、農商務省蚕業試験場(のちの東京高等蚕糸学校)が移転することになる。
農務局蚕業試験場真景、白幡伯雅による浮世絵(明治21年)
農務局蚕業試験場真景、白幡伯雅による浮世絵(明治21年)
正門左側の門柱に「農務局蠶業試験場」、右側門柱に「山林局試験場」と書かれている。合併後、敷地の東側は山林局試験場として使用された。正門がこの位置に置かれたのは、樹木試験場の時代の明治13年5月である。浮世絵は東京農工大学附属繊維博物館蔵。この画像は、同大学附属繊維博物館および附属図書館開催の「新版VR浮世絵展示室」に掲載されているものを許可を得て転載させていただいた。
8月 東京農林学校校則を制定。そのほか、図書及び器品貸与規則、学業試験細則。9月には、学生心得事項、寄宿舎規則など、年末に至るまで、さまざまな規則を制定 学生、生徒は駒場農学校、東京山林学校より引き継いだが、その際、編入試験が行われた。当時の東京山林学校の在学生は126名で、まだ卒業生は出ていなかった。東京農林学校の発足当時の在学生は、農学部24名、林学部27名、獣医学部6名、速成科123名、予備科153名(合計333名)であった。各学部で修学する者を学生と称し、速成科、予備科で修学する者を生徒と称した。修業年限は、農学部、林学部、速成科が2年、獣医学部と予備科が3年であった。予備科および各学部では、日本語のほか、英語、ドイツ語で授業が行われ、速成科は日本語に限られていた。学年は9月11日から翌年7月10日までとしたが、伝染病騒ぎなどがあり、授業は10月11日から開始された。開校記念日は10月12日とされた。教官会議は毎月1回開かれた。
12月13日 臨海実験所落成(神奈川県三浦郡三崎) 理科大学動物学教授箕作佳吉が、世界に先がけて開いた。海産動物の研究に大きく貢献することとなる。翌年、帝国大学臨海実験所と正式に命名された。
明治20年
(1887年)
3月2日 火災により建物14棟を焼失 植物方小物置から出火、この火事で建物14棟、穴蔵1を焼失した。
4月 三田種育場の獣医学別科が東京農林学校獣医学部に合流  
7月27日 東京農林学校の第1回卒業式  
11月6日 農学会を創立 当時は駒場農学校、札幌農学校の卒業生等が中心の幹事長・評議員合議制で発足した研究団体であった。
12月 学科制を採用し、学科を本科および予科に分け、本科の中に、農学科、獣医科、林科を置いた。また、速成科を簡易科に改称し、簡易科内に水産科を設けた  
明治21年
(1888年)
9月 東京農林学校別科生が農話会を創立、のちに講農会となる 本科の農学会に対して、別科生が研究錬磨し、親睦を深めることを目的として農話会を創立した。その後、乙科、実科の卒業生、在校生が組織する講農会となった。
明治22年
(1889年)
9月4日 再び、学部制を採用。農学部、獣医学部、林学部が置かれ、各学部に本科と予科が置かれた。農学部本科を農学科、農芸化学科に分けた。簡易科は各学部の別科となり、水産専修科は農学部別科の中に置かれることとなった 明治19年の東京農林学校校則では、卒業生に学士を与えることを認めていなかったため、これを可能にすべく規則の改正を行った。なお、予科においては歩兵操練が廃止され、ドイツ語、数学、法律学が追加され、別科においても科目を増加した。別科入学資格をこれまでの18歳以上32歳以下から、20歳以上にして最高年齢の制限を廃した。修業年数は、本科、予科、別科すべて3年であった。また、本科、別科ですでに卒業した科目のうち、1つまたは数個の授業課目を学び、さらに研究することを希望する者のために選科研究科の制度を設けた。工部大学校には、卒業生徒修学という、ある学科を修業した後、別の学科を修業することを保障する制度があったが、こちらは現在の学士入学に近いものであったのに対し、選科研究科は、同じ科目の修業をさらに深めることを目的としたもので、大学院に似た制度であった。選科研究科では、研究成果を著した論文が優秀であった場合、「永ク本校の図書館ニ保存シ閲覧ニ供スヘシ」とあった。

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