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東大農学部の歴史 東大農学部の歴史

農学部の成育 - 帝国大学農科大学

治23年、東京農林学校は帝国大学に合併し、帝国大学の分科大学として農科大学が創設された。その後、講座制がしかれ、明治43年には、学科も農学科、農芸化学科、林学科、獣医学科、水産学科の5つになった。

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月日 できごと メモ
明治23年
(1890年)
6月11日 東京農林学校を帝国大学に合併し帝国大学農科大学を設置 明治23年6月9日、文部大臣と農商務省大臣の連名で山県有朋首相宛に、農科大学設置の閣議請議文が出された。そこには、農科大学を文部省下に置くことは、管理上、経済上の利便があり、また、その「専門学校」の地位を進め、大学の学部とすることにより、農林の学科を拡充できる利便もあるとしていた。この請議文は2日後の6月11日に裁可を得たが、文部大臣から大学の評議会に対して農科大学設置の諮問を行うに至り、評議官の強い反感を買い、異議が唱えられた。評議会の議論の要点は、(1) 文部大臣が事前に諮詢しなかったこと、(2) 帝国大学の分科大学にするには水準が低いこと、(3) 欧米先進国において大学の一分科として農科を設けた例がないことなどであり、評議官が総辞職をするに至った。(ただし、東京大学百年史通史によれば、(1)については、以前から評議会で審議されていた形跡がある。)しかしながら、評議官が文部大臣に1人1人が呼ばれて説得されると、全員辞表を撤回し、6月17日の評議会で農科大学を帝国大学の分科大学にすることが決定された。
この合併に伴い、農科大学は文部省の所管となった。学生および諸物件の引継ぎは6月に開始され、9月に終了した。当時の学生数は52名、図書は21,557点、地積62町3反70とされる。当時の教授は23名、外国人教師および講師は8名であった。農商務省と文部省の官制の違いにより、教授は学長を含む3名、助教授は20名でスタートした。初代学長は第三高等中学校長であった松井直吉が任命された。松井は、明治44年2月1日に死去するまでその職にあった。なお、外国人8名のうち7名はドイツ人、1名はイギリス人で、ほとんどは明治20年代に退任している。外国人教師を通じて直接的に西洋農学を導入した時代は明治20年代をもって基本的に終わったと言ってよい。
6月 農場が帝国大学農科大学に附属となった  
7月25日 高等農林学校所定の学課を履修した学生に卒業証書を授与 甲科学生25名、乙科学生81名に卒業証書が授与された。
9月10日 農科大学学科課程を制定 農科大学設置当初は、旧東京農林学校の制度を継承していたが、新たに農科大学学科課程を制定した。学科編成は、農学科第一部、農学科第二部、林学科、獣医学科からなる。農学科第二部は農芸化学を主とするが、将来の進歩に従い農芸植物学、農芸物理学、農芸動物学、農芸化学を主にするもの等の数部に分ける方針であった。実施農業に従事する者を養成するため、別科に代わって乙科を各学科に設けた。(本科は明治25年まで甲科と称した。)乙科の入学資格も、田畑所有者またはその師弟という条件に変更はなく、中学校卒業という制限を設けなかった。その狙いは、当時、農村の安定勢力になった豪農や地主の子弟を教育の対象にし、卒業後は農村に帰って村の中堅となるような人物の養成にあったのである。農場実習に重きが置かれ、また、仮入学の制度もあった。一方、予科については、新たな募集は行わなくなった。明治23年6月の時点で約170名在籍したが、改組後に修業年限を3年から4年に延長され、翌明治24年9月から順次本科に進学することとなったが、3年後の27年7月にはまったくいなくなった。東京大学百年史通史によれば、かなりの退学者があった模様である。
10月19日 農科大学卒業生の学士号を農学士、林学士、獣医学士とする 「学士」の称号が与えられることになったことを機会にして、各科は学部と改称した。
11月26日 獣医学科の卒業規則制定 第3年次に卒業試問を実施することが規定された。他の学科では、卒業試問を行わず、学年ごとに学年試験を実施した。明治32年には、卒業試験規定と改まった。獣医師については、明治19年7月より、獣医免許規則が施行され、この規則で免許を得た者でなければ、家畜診療業務は行ってはならないとされた。獣医免許が受けられる条件として、獣医免許試験に合格した者、官立府県立の獣医学校もしくは農学校において獣医学を専修した者などが挙げられており、こうしたことからも卒業に際して一定の条件を課すことになったと考えられる。
明治24年(1891年) 10月26日 篤志農夫規則を制定 篤志農夫は、実地訓練を目的として東京農林学校時代から置かれていたが、農科大学もまたこれを継承し、篤志農夫規則によれば、篤志農夫を志望する者は20歳以上の者で、「身体強健農事ノ服役ニ堪ヘ、三ヶ年間修行ノ見込アルモノニ非ラサレハ許サス」とされている。定員は当分10名とするとされており、労賃は全く支払われていない。修業年限を満期終了した成績熟練の者には証明状を与えた。怠惰、不品行、欠業頻繁等の者は退場との条項もあった。明治33年3月には、篤志蚕業夫、篤志林業夫も置かれた。希望者が多く、かつ実業学校卒業者等も相当にある者が増え、農夫等の名前が必ずしも適当ではないという判断から、大正2年、これは廃止されて、農地実地見習、蚕業実地見習、林業実地見習に改められ、修業年限は2年に短縮された。
明治25年(1892年) 9月 各学科の課程を全面的に改訂 学課目の詳細はこちら
明治26年(1893年) 9月 各分科大学の講座制が正式に確立 帝国大学と文科省との間でいくつかの案が出されたが、当初は、20講座(13種類)からスタートすることとなった。帝国大学全体では123講座であった。農学第一、第二, 農芸化学・化学第一、第二, 林学第一、第二、第三, 畜産学, 園芸学, 植物学, 動物学・昆虫学・養蚕学第一、第二, 地質学・土壌学, 農林物理学・気象学, 農政学・経済学, 家畜解剖学, 家畜生理学, 家畜内科学・外科学第一、第二、第三。
11月14日 農学科二部、農芸化学科として分離独立  
明治27年(1894年) 11月29日 千葉演習林設置 千葉県長狭郡天津町の山林336町歩余を林学科実習用として政府より交付され、ここに、わが国最初の大学演習林が創設された。清澄山は気候も地味をよく、暖帯樹も温帯樹もあり、東京に近く演習に適していたから、というのが設置の理由であった(明治林業逸史)。その後、千葉演習林は数回にわたってその面積を広げ、現在では2,169ヘクタールとなっている。
明治30年(1897年) 2月21日 農科大学講堂(旧駒場農学校本校教室)を焼失 理化学教室で失火、農学教室、器械室、標本室など、隣接する本校教室の大部分を焼失した。
本校焼失前の農科大学の地図
本校教室焼失前の農科大学の地図

開校当時の、農場を中心にした建物配置の最後のころを示すもの。本校教室周辺の建物が焼失した後、新しい教室が敷地の中心から東側に建設され、事務所も移され、正門も東の通用門に近い位置に移された。
6月1日 帝国大学を東京帝国大学と改称し、農科大学を東京帝国大学農科大学と改称  
12月 理科大学附属臨海実験所を小網代に移した  
12月25日 千葉県君津郡の山林1833町9畝歩を林学実習用として政府より交付  
明治31年(1898年) 5月 乙科を廃し実科を設置 廃止当時、乙科には少なくとも171名の生徒がいたが、明治34年9月には、その全員が卒業もしくは退学した。実科の設置にあたって、気象学、地質学を加え、学科の時間を増やし、学科の点数を重視するようにするとともに、これまで入学を許可するのに、田畑所有者またはその師弟という条件を課していたところを、この条件を課した対象者をほぼ半数に減らした。乙科の中では、乙科という名称の変更、授業科目の程度、課業の大部分を実習にしていることの不満などがあったが、実科の設置により、これらのいくらかは改善された。また、入学者の学力についても、乙科設置当時に比べ中等普通教育が発達しており、特別な配慮が不要になってきていたこと、卒業生に対する需要についても、実科卒業生の需要は増大しているが、それは質の変化を伴っており、高度の学識と技術を備えた官庁、公共団体等の専門技術者ないしは指導者という行政的要求に変化していた。明治26年農場監督になり、乙科の指導にあたった斎藤萬吉は「農学は舌耕にあらざるなり」と言い、また、実科生の回想には、「農学実科及びもとの農学乙科一日の課業は、朝にペンを握りて講堂に昇り、夕に鍬を執りて圃場に耕し、自然に学び自然を友とし、半ばは以て心を労し、半ばは以て身を役するに在り。」とあり、実習重視の教育がうかがえる。なお、当時の帝国大学、東京帝国大学時代における付設的な教育課程・機関としては、医科大学の国家医学講習科、看病法講習科、産婆養成所、理科大学の簡易講習科があった。
9月 演習林本部設置 演習林の地積が拡大され、試験研究業務が盛んになるに伴い、管理責任が増大した。そのため、東京帝国大学官制が制定された際、演習林長を設置した。演習林長は、農科大学教授または助教授の中から、文部大臣が任命し、本学総長の監督のもとに演習林に関する事務を掌理した。
12月10日 学位令が発令され、帝国大学が授与する博士号に、農学、林学、獣医学が追加された 明治20年5月21日に学位令が発令され、法・医・工・文・理の博士号・大博士号(実際には授与されなかった)が設けられていたが、新たに、農学、林学、獣医学、薬学が追加された。なお、大学院については、帝国大学大学院規程が明治19年に定められ、明治20年には、各分科大学に研究科が設置されて、大学院学生は研究科に所属する(研究生となる)ことが決められる。農科大学もこれに従ったが、明治32年、大学院規程が大幅に改正され、この規程が廃止されるとともに、農科大学では、法・工とともに、研究科そのものも廃止された。
明治32年(1899年) 4月1日 農科大学構内に農業教員養成所開設 明治32年2月の実業学校令施行に伴い、農科大学附属として農業教員養成所が設けられた。同養成所は農業補習学校教員をすることを本旨とするものである。農業補習学校とは、小学校に併設されたもので、初等教育を修了した者が農業に従事するかたわら、夜間に補習の教育を行うための学校であり、農業教員養成所はこのための教員を養成することにあった。補習学校は、農業だけでなく、工業、商業、水産業、商船等にも創設されたが、需要は農業が一番であった。農業教員養成所の修業年限は当初1年と決められた。その後、修業年限は2年になり、大正11年には農業学校教員の養成だけが目的とされ、修業年限は3年になった。農業実業教育の比重が、次第に補習学校から、中等の実業学校である農業学校に移るに従い、その教員の不足を生じ、教員養成所は、そのための教員の供給をも目的とすることになったからである。農農業教員養成所は、設置以来、農科大学の時代である大正7年までに423名の卒業生を出した。
10月13日 北海道演習林新設 北海道石狩国空知郡富良野村の山林2万3794町歩を政府より交付される。農地の開拓が行われたが、昭和21年、自作農創設特別措置法により農地の解放が行われ、その後、 石綿、石灰鉱山等公共用地の譲渡もあり、現在の所管面積は2万2758ヘクタールである。かつては発電所、製材所、50キロメートルに及ぶ森林軌道があったが、現在は撤廃されている。
明治44年撮影の砂金沢入り口の山土場明治44年撮影の砂金沢入り口の山土場
11月 試験規程の制定 点数は、平常点数(学年中、随時試験その他適当な方法で採点)、試験点数(学年末試験の成績)、学年点数(平常点数と試験点数の平均)、平均点数(学年点数の総課日の平均)の4種類とし、それぞれ百点満点とする。平常点数に試験点数と同じ比重を置いていることは、実験・実習が多い農学の特徴の一つと言える。
明治35年(1902年) 4月1日 農業教員養成所が農科大学の附属となる 主事が置かれ、法規上、農科大学附属の名称を得るとともに、教育機関としての体裁が整備された。
9月 台湾演習林新設 台湾総督府より国有林の山林約5万7600町歩の贈与を受ける。台湾演習林は、台湾島の中央に位置し、北回帰線に接するもので、最高地点は新高山頂3,950メートルに及んだ。
9月 府中演習林新設 北多摩郡府中町の民有地約15町歩を演習林用地として購入した。府中演習林は、昭和10年、東京高等農林学校(東京農工大学農学部の前身)に移管された。
9月 代々木演習林新設 豊多摩郡代々幡村の民有地約4町歩を演習林用地として購入した。
明治37年(1904年)     明治37年ごろの農学教室
明治37年ごろの農学教室
農芸化学教室の側から農学教室を撮影したもの。写真中央が農学中央教室で、その右の農学右翼教室とともに明治34年11月30日に竣工した。写真左は農学左翼教室で明治33年9月13日竣工した。
明治37年ごろの農場
明治37年ごろの農場
農場詰所から撮影したもの。写真左が南方、右が西方を望む。写真左、左側の細長い建物が農具置場、右側に農夫舎、飼料置場などが並ぶ。
獣医学教室
獣医学教室
正面は家畜病院の建物。写真の胸像は家畜病院を開設したヤンソンの像(明治35年大熊氏廣作)で、現在は、農学部キャンパスに移されている。

以下、小川一眞「東京帝国大学」(東京大学総合研究博物館デジタルアーカイブより)
農科大学全景
農科大学全景
養蚕室
養蚕室
農芸化学教室
農芸化学教室
農芸化学実験室
農芸化学実験室
獣医学列品室
獣医学列品室
家畜飼育所
家畜飼育所
ガラス室(温室)
ガラス室(温室)
見本林
見本林 
明治39年(1906年) 4月1日 官制により農場長を置くことが定められる(附属農場新設) 官制として農場長が設けられ、農場運営の近代的組織化が緒についた。農場長は、農科大学の教授、助教授から選出されることになった。3月29日の勅令第39号の原文は以下のとおり。
第十五條ノ次ニ左ノ一條ヲ加ヘ「第十五條ノ二」ヲ「第十五條ノ三」ニ改ム
第十五條ノ二 農科大學附属農場ニ農場長ヲ置キ農科大學教授助教授ヨリ文部大臣之ヲ補ス
農場長ハ総長監督ノ下ニ於テ農場ノ事務ヲ掌理ス
附 則
本令ハ明治三十九年四月一日ヨリ之ヲ施行ス
5月9日 原熈助教授が初代農場長に就任する 初代農場長は、原熈で、昭和4年まで22年11ヶ月間にわたってその任にあたった。現在も行われている農場実習が形、内容ともに整えられたのは、原の思索と努力によるところが大きい。なお、農場実習は農学校開設当時から農学科の教科の1つとして学生に必ず課せられ、農学教育の充実に大きな役割を果たしてきた。その背景には、駒場時代においても農学科に入学する学生には、農村出身の子弟で農耕上の経験をもつものが少数だったことが挙げられる。農科大学当時の農学科の農場実習は、1〜3学年を通じ、毎週1回2時間で、農学乙科(明治23〜30年度)、農学実科(明治31〜昭和9年度)と農業教員養成所(明治32〜昭和11年度)の生徒には、年間を通じ、農学科の2〜3倍の授業時間が農場実習に充てられた。また、原熈助教授は、明治44年11月28日に東京帝国大学農科大学教授に昇任し、大正2年12月26日に農学博士の学位を取得した。
明治40年(1907年) 4月 農業教員養成所規則を改正し、修業年限を2年に延長 従来の農業補習学校教員のみの養成から農業学校教員の養成も意図したもの。修業年限を2年に延長するとともに入学資格も改正された。
明治41年(1908年) 6月 理科大学臨海実験所付近の土地7,000余坪を購入する これは、農科大学の水産学の実験をも同所で施行することになったためである。
明治42年(1909年) 3月 植物実験圃場設置 文京区白山の理学部附属植物園の北側に位置し、0.66ヘクタールの面積をもつ。現在の小石川樹木園である。
明治43年(1910年) 4月21日 水産学科新設 水産学の4つの講座が明治40年に新設され、この年、新学科として設置された。
    農場側から見た農科大学全景
農場側から見た農科大学全景
農場詰所から撮影したものと思われる。左手に農芸化学教室、農学教室が見える。
農場全景農場全景

遠くに農科大学の教室が見える。農場の広大さがうかがえる。
左手前が農芸化学教室、右が農学教室
左手前が農芸化学教室、右が農学教室
明治30年以降、農科大学の主な教室が次々に建設された。明治32年2月29日農芸化学教室、同11月29日物理学教室、36年10月29日農学教室、37年4月21日林学教室、42年10月動物学及水産学教室、43年10月26日植物学教室。
左手前が植物学教室、中央が林学教室、右が動物学及水産学教室左手前が植物学教室、中央が林学教室、右が動物学及水産学教室

左が動物学及水産学教室、右が植物学教室
左が動物学及水産学教室、右が植物学教室
農場側に向かって撮影したもの。
当時の温室
当時の温室
明治36年3月に竣工した。
大正元年(1912年) 12月 朝鮮演習林設置 朝鮮総督府より山林約5万3200町歩を借受し、江原道演習林3万900町歩および全羅南道演習林2万2300町歩が新設された。
大正2年(1913年) 2月28日 家畜病院の厩舎を火災により焼失  
6月 農科大学卒業生の学士号に水産学士を加える  
10月 北海道空知郡下富良野村の国有林約417町歩を本学の所有とし、北海道演習林に加える  
12月 千葉県君津郡亀山村の民有地1万6800余坪を購入し演習林に加える  
    農場詰所
農場詰所
明治35年、焼失した本校教室のあった場所に建築された。同じころ、農場の諸建造物も合わせて建築され、移転するまで使われた。
農場より畜舎の遠望
農場より畜舎の遠望 
大正3年(1914年) 6月7日 樺太演習林新設(附属演習林として樺太庁より約2万1000町歩を移管)  
大正5年(1916年) 2月15日 水産化学教室を火災により焼失 大正6年1月に新築された。
11月 朝鮮江原道の民有地1万3721坪を購入し、江原道演習林に加える  
12月 秩父演習林新設(埼玉県秩父郡大滝村の民有地2,863町歩を購入し演習林とした)  
    駒場の農学部正門
駒場の農学部正門
開校以来の正門は、明治36年春に、それまで敷地の東にあった通用門の位置に変わった。明治38年冬には、道玄坂に通じる道が改修され、渋谷からのアクセスが便利になったという。この門は、現在の東京大学駒場キャンパスの炊事門よりさらに渋谷側、渋谷区と目黒区の区境付近にあった。
林学教室
林学教室

林学教室列品室

農芸化学教室
大正6年(1917年) 8月 埼玉県秩父郡大滝村の民有地3,224町歩を購入し秩父演習林に加える  

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