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東大農学部の歴史 東大農学部の歴史

「農学事始め」(安藤圓秀)によれば、「駒場の運動会の起源は明らかではないが、明治20年前後には、大アーチを設けるほどの運動会にまで発展していた。」とある。「明治林業逸史 続編」の座談会で、その起源について志和地榮介は次のように述懐している。明治19年に駒場農学校と東京山林学校が合併した際に、双方仲が悪いと云う程ではないけれどもその間がどうもシックリ行かなかった。そこで、農科が平田幸二郎、獣医が大月雅得、山林が私、この3人が委員となって池上の本門寺で運動会をやろうと云うことになった。この企画に東京農林学校幹事の奥田義人(後の司法大臣、東京市長)が50円を寄付し、その勢いで舎監にも援助を仰ぎ、当日の食事は学校の賄いから池上までもっていくことになって、盛大な会になった。会が終わったとき、中村彌六教授が賞品台の上に上がって演説をしたが、それが両校の感情を融和するのに非常に効果があった。そして、翌年、2回目を駒場でやることになった。

駒場の運動場は当時としては非常に規模が大きく、そこで開催される駒場の運動会は、農作物一式で見事に造り上げた大飾門、奇想天外の仮装行列など、派手な催し物で世に知られ、見合いの場としても利用され、皇族(例えば、明治29年には後の大正天皇、明治末には後の昭和天皇が秩父宮、高松宮と見学に来られることもあったという。当初は、東京農林学校の開校記念日10月12日と翌13日に行われていたようであるが、その後、11月上旬に開催されるのが通例となった。


明治31年の運動会
以下3点の写真は、第一高等学校教授多湖實輝(故人)蔵で、大西路男様より寄贈していただいたもの。

演技場入口演技場入口

綱のぼり競争?綱登旗取(マスト昇り競争)

障害物競走障害競走

明治31年の運動会は11月12日に挙行された。講農会報39号は、当時の模様を「満天拭ふが如く壮大なる緑門は高く原頭の一隅に聳立し紅白無数の旗片は場の中空縦横軽風に翻へり通用門より運動場の入口に至る路次には例に依て左右様々の造物を飾り淡枯荒涼の幽境一変にして宛然春陽の光景を現出す」と伝える。緑門は上の写真のことであろう。午前8時30分、1発の花火とともに音楽の演奏が始まり、以下のような競技が行われた。幅跳び、100ヤード競争、竿跳び、棒卵競争(片手にもった木製のしゃもじに木球を載せて100ヤードを競う)、300ヤード競争、跛行競争(片足に非常に大きな薩摩下駄を履いて走る)、綱登旗取(2つ目の写真、高さ3丈(約9m)の柱に四方から斜めに綱を取り付け合図とともに綱をよじ登り頂上にある布片をとる)、載嚢競争、提灯競争、一脚競争(袋に入ってピョンピョン跳びながら走る)、障害競走(3つ目の写真、木柵(下を渡る)、棚、網、塀、堀、袋、竹圏など)、玉拾競争、高飛競争、卒業生競争、500ヤード競争、東京帝国大学運動会会員競争(500ヤード)、提灯競争、俵運び競争、諸学校競争(500ヤード)、来賓競争(棒卵白)、障碍物競争、学士競争、直轄学校競争(500ヤード)、1000ヤード競争。呼び物は仮装行列で、狐の嫁入り(農科)、樹裁の描木を積んだ車をひく小学生(林科)、4人で支える大象と、それを捕獲しようと周囲を駆けめぐる原住民の3騎者(獣医科、その大仕掛けは運動会の余興を超えていたと記す)、3騎者の競馬(途中に転げ馬を抱いて逃げる様は最も愉快であったとのこと)、ただ「余興」と称し種々異様な装飾をした仮装行列(農科)といったものがあった。賞品授与式を終えて万歳を連呼したのは午後6時前であったという。上記の記事の中で、「農科大学の運動会はその主旨とする所は独り運動のみに非ずして駒場の大懇親会或いはお祭とも称す可く学士卒業生は之を機として相会合し学校の農夫常夫等は平日の労を癒し」と述べている。

仮装行列は、駒場の運動会の呼び物だったが、その起源について、「明治林業逸史続編」の中に次のような記事がある。明治21年、運動会の前々日、寄宿舎の一室における夕食後の雑談で、今度の運動会では何か奇抜なことをして他のクラス生をあっと言わせてやろうという話になり、国粋保存の大名行列が計画された。当日まで秘密裏に準備を進め、行列の次第は当時を知る年配の事務員に聞き、寄宿舎のあり合わせのものを使って扮装した。殿様の駕籠は寝台の抽出しを赤毛糸で包み棒をくくりつけ、陣笠は黒く塗ったランプの笠に紋を貼り付けて作り、足軽が担ぐ箱は石油の空き箱を利用するなどした。質素な支度であったが滑稽な演技やハプニングもあって会場は大いに沸き喝采を博した。たいへん好評で、翌年もやれという声が多かったので、協議の末、翌年は富士の卷狩をやることになった。いずれも狩衣装束の武士、猟師、勢子などに身を扮し、獣医から借りた大豚をイノシシに見立てて狩りをする趣向が、豚が一向に動かず困り果て新田四郎も這々の体で引き上げたが、それがかえって面白がられ、やんやと囃された。このように無邪気な余興が期せずして大呼び物になり、その後は、林科だけでなく、農科や獣医科においても趣向を凝らして毎年行うようになった。また、上記の記事には、種目についての記載もあり、初日(10月12日)は、午後から柿拾い、二人三脚、載嚢競争、330ヤード競争等が行われ、翌日は、午前8時から、陸軍軍楽隊演奏の下に前日の競技種目の表彰の後、高跳び障害物競走、880ヤード競争、校員柿拾競争、来賓競争、学校小使競争、撃剣、相撲などが行われた。相撲には、実際の力士が観戦に来たという。

「寫真畫報」に掲載された明治39年の運動会
「駒場農科大学運動会は帝都運動会中、最も盛大なるもの」と紹介されている。「寫真畫報」第一号十八編より。


大正時代の絵はがきより
以下、最初のケースとその中にあった絵はがき3点が大正5年のもの、その後の絵はがき2点は大正6年のもの。これらは農学実科2年生が作成したものである。

大正時代の絵はがきより1 大正時代の絵はがきより2

大正時代の絵はがきより3

大正時代の絵はがきより4

大正時代の絵はがきより5

大正時代の絵はがきより6

以下、大正10年の絵はがきのケース、プログラムの表と裏、絵はがき2枚。いずれも農学実科2年生が作成したもの。阿部宏喜先生より提供していただいた。

 



東京帝国大学農科大学陸上大運動会記念絵はがきより

東京帝国大学農科大学陸上大運動会記念絵はがきより1

東京帝国大学農科大学陸上大運動会記念絵はがきより2

東京帝国大学農科大学陸上大運動会記念絵はがきより3

東京帝国大学農科大学陸上大運動会記念絵はがきより4

東京帝国大学農科大学陸上大運動会記念絵はがきより5


昭和初期の卒業アルバムより

応援歌農教(農業教員養成所)の応援歌

仮装行列仮装行列

応援団応援団

優勝の喜び優勝の喜び


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