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東大農学部の歴史 東大農学部の歴史

内藤新宿試験場設立のころの動き

明治政府は、殖産興業の一環として当時の主要産業であった農業の振興を目指す「勧農政策」を実施した。以下、 明治の初めの勧農政策に関するできごとを並べる。明治政府は、必要に応じて新しい行政機構を設置・改組していったが、当時のめまぐるしい機構の変遷がうかがえる。

月日 できごと
明治2年
(1869年)
4月 民部官を設置。民部官中、物産司を設け、全国物産の事務を執り行う。
5月3日 民部官中、開墾局を設け、開墾の事務を司る。
7月8日 民部官を廃止し、民部省を置く。民部省中で物産、開墾の事務を扱う。
8月12日 民部・大蔵両省が合併。
明治3年
(1870年)
7月10日 民部・大蔵両省が分離。
9月27日 民部省に勧農局を設け、開墾、種芸、養蚕、編輯、雑務の5課を設置。
12月 勧農局を開墾局と改める。開墾局中に、牧牛馬掛を置く。
明治4年
(1871年)
1月20日 それまで大蔵省通商司の管轄であった牧畜の事務を民部省が担当。
4月 開墾局を勧業局と改め、開墾、種芸、牧畜、生産の4掛を設置。
7月27日 民部省廃止。大蔵省中に勧業司を設置。
8月10日 勧業司を勧業寮(三等寮)に格上げ。
8月23日 勧業寮を勧農寮と改める。
明治5年
(1871年)
9月10日 勧農寮廃止。その事務を租税寮雑務課で行う。その後、まもなく租税寮中に勧農課を設置し、さらに勧業課となる。
10月 勧業課内に試験場掛を設置し、内藤新宿試験場を開設。
明治6年
(1873年)
11月10日 内務省設置。
明治7年
(1874年)
1月 それまでの勧業課の業務は、内務省所管となり、内務省勧業寮(一等寮)として復活。
3月 勧業寮に農務、工務、商務、編纂の4課を設置。農務課は、内藤新宿試験場内に設置され、農務課中に牧畜掛、樹芸掛、養蚕試験掛が置かれる。
4月 農務課中に、さらに農具掛、農学掛を置く。内藤新宿試験場内に農事修学場を設置する計画が議決される。
6月22日 内藤新宿試験場を官庁地に組入、勧業寮新宿支庁とする。
明治8年
(1875年)
2月 農事修学場設置の件が太政官に裁可される。農務課中に、製茶掛を置く。
9月 勧業寮の中に10課を設ける。第一課は庶務、受付、往復、浄書、用度、第二課は会社、漁猟、第三課は編纂、報告、製表、第四課は牧畜、開墾、農具、第五課は植物、虫魚、種庫、第六課は学校、農業博物館、分析、第七課は養蚕、製糸、製茶、第八課は漆器、陶器、染工、その他百工、第九課は商業、第十課は博覧会を担当する。従来の農学掛は第六課となる。第六課は学校掛、農業博物掛、分析掛の3つの掛からなり、学校掛は、農学生の教育、関連学校の設置、農業博物掛は、内外農産物、農芸品の蒐集と展覧、分析掛は、肥料の調査、土質分析その他の分析事務を担当。
明治9年
(1876年)
5月 商務を担当する勧商局を分置。
9月 第六課を農学課と改める。このとき、農務課(植物、動物、農具、開墾、養蚕、製糸、製茶)、工務課(分析、陶器、染物、木具、鉄葉器、石油)、農学課(学校、農業博物館、分析)、庶務課(当務、会社、猟魚、受付、往復、浄書、博覧会)、編纂課(編纂、報告、製表)、主計課(正算、用度、修繕)のほか、農業試験場(内藤新宿試験場内、植物、動物、農具、養蚕、製糸、製茶)、工業試験場、下総牧羊場などの部署が設けられる。試験場は一般の勧農事務と切り離される。
明治10年
(1877年)
1月 勧業寮を廃止し、勧農局を設置。

内藤新宿試験場

明治4年11月、勧農寮は、駒場野に牧畜試験場、霞ヶ関にも試験場を置いて西洋の穀類・野菜の栽培を行っていたが、明治5年9月、牧畜、園芸の改良を目的とした大規模な試験場を開くことを決め、翌10月、内藤新宿試験場が開設され、府下の試験場がこれに併合された。これに対し、北海道開拓使は、明治4年8月、青山南町(第一官園)、北町(第二官園)、麻布区笄町(第三官園)に官園を設け、寒冷地北海道に適する農作物の栽培、家畜の飼育の試験を行っていた。内藤新宿と青山の2つの試験場は、明治初めに政府が設立した代表的な農業試験場である。開拓使の官園では、米国産の農作物が多く栽培され、米国式農法も試みられたが、内藤新宿試験場は、自然にヨーロッパ系統になったという(玉利喜造「明治園芸史」)。

内藤新宿試験場の土地は、当初、信州高遠藩主内藤家の中屋敷(通称下屋敷)9万5636坪を購入したものであった。その後、明治6年12月までに、新宿、千駄木の周辺地を購入し、合計17万4932坪となった。そのうち、新宿の1万8289坪は、内藤新宿南裏字上ヶ地(現在の新宿高校のあたり)において明治2年2月ごろより開墾が行われ、当時、内藤新宿開墾地と呼ばれていた土地である(実際には、茶の植え付け程度で大規模な開墾は行われていなかったようである)。土地の購入代金は、全体で9801円85銭3厘、そのうち内藤家の土地は4857円であった。

試験場では、内外の動植物を収集して、それらを養畜・栽培し、その適性、病害に対する対処法、生産を増大する方法を研究し、試業に供するものは府県あるいは民間に分与した。例えば、明治7年には、サクランボ、ブドウ、ビワ、明治8年には、オリーブ、リンゴなどが試験的に栽培され、各府県に配られている。それらの中には、現在、その地方の特産品となっているものも少なくない。桃の砂糖漬けの缶詰を試作し、各府県に頒布した記録もある。明治7年10月には、農業博物館が完成した。農産物、農芸品にとどまらず、海産品、化石、鉱物、肥料、内外の書籍などが置かれた。博物館の周りには、外国人教師の進言により、植物園式に草木の培植も計画された。試験場は一般に公開され、明治8年5月には、試験場の縦覧規則が制定された。門で鑑札を受けとること、縦覧時刻は午前10時〜午後4時であること、馬車は大路を外れないようにし、犬を連れている者はつないで歩くこと、花を折ったり、果実をとったり、草本栽培地を踏んだり、畜類にえさをやったりしないこと、包みものあるいは笊をもって門内に入らないことなどが記されている。

試験場は、当初、水田、穀類畑、野菜園など7園に分かれており、その後、桑畑、茶園が加わり、明治10年には3150種の植物があったという(金井利彦「新宿御苑」)。明治7年に蚕業試験掛が設置されると、明治8年には蚕事学校附属の蚕室、明治9年には製糸部の施設が建設されている。また、試験場内では、家畜も飼育され、製茶の試験研究も行われていた。内藤新宿試験場の建物配置等は不明だが、明治12年に宮内省に引き継いだときの施設一覧によれば、事務所、農業博物館、生徒室、倉庫(4棟)、官舎(13棟)、その他、農産物製造所、畜舎、製糸部の事務所・食堂・糸庫、養蚕部の事務所・蚕室、製茶場、蜜蜂小屋などがあった。明治20年代の東京実測図を見ると、玉川園の北側に建物が集中しており、試験場当時も、このあたりに多くの施設があったと推測される。また、明治8年5月に建てられた洋式温室(3間×12間)は、ガラス張りの無加温室で、現在の新宿御苑の温室とほぼ同じ位置にあった。この温室は、明治18年に小石川植物園に移設されている。ちなみに、駒場の農学校に最初に温室が建てられたのは明治12年1月である。


内藤新宿試験場の周辺の地図内藤新宿試験場の周辺の地図
明治11年「実測東京全図」より。

明治8年に建てられた温室試験場時代の明治8年に建てられた温室
「実際園芸」 1937年3月号より転載。

内務省は、また、明治10年6月、三田の旧薩摩藩邸跡に三田育種場を設立した。三田はそれに先立つ明治7年に植物の試験地とする動きもあったところである。三田育種場は、西洋の種苗・農具の輸入と実験・普及にあたる施設で、明治12年に内藤新宿試験場が廃止されると、その事業の多くを引き継いだ(養蚕・製糸関係は富岡製糸場に引き継がれた)。明治13年には、三田種育場において東京談農会が発足し、明治14年には、明治8年に発足した開農義会、さらに明治12年下総牧羊場で発足した東洋農会と合流して大日本農会が発足した。ただ、その後、西洋の種苗の輸入、西洋の農具の製作が下火となり、明治22年には農場自体も民間に払い下げられた。一方、内藤新宿試験場は、宮内省の所管となり、新宿植物御苑となった。


設立当時の三田種育場
祖田修「前田正名」吉川弘文館より許可を得て転載。



農事修学場から農学校へ

明治7年4月、内藤新宿試験場に農事修学場を設置し、獣医学、農学、農芸化学、農学予科、農学試業科等の教師を海外から招聘することが決められ、学校設立、生徒教育、学場規則等の数十項が作られた。農事修学場の設置は、7月太政官に上請され、明治8年2月、裁可された。試験場では、すでに明治6年10月、農業生を募集し、牧畜、樹芸、農器械使用等の実際的な教育が行われていたが、本格的な農業教育の準備のため、農業生は明治8年10月に廃止される。明治8年12月には、農学校設立ならびに生徒教育、教師雇用の方針が上申された。これは、(1) 獣医学校を設置すること、(2) 農学校を設置すること、(3) 分析所を設置すること、(4) 教師の選択は事業の成否に肝要であり、大教師、分析教師、獣医教師、予科教師、現業教師の5名を雇い入れること、(5) 農学校に多少の園圃牧場を付して生徒実地の経験に便ならしむべきこと、また、各生徒の修業年限を終え其成業する者には農業成熟の証書等を与え農業或いは獣医の技術士の役に就くを免許することなど、の5か条からなるもので、農学校の目的や機構が具体的に示されている。教師については、生徒教育のほか、「時宜ニヨリ長官ノ命ヲモッテ試験場ノ事業ヲ兼帯セシメ動植物ノ繁殖樹芸耕耘ノ順序等試験ノ方向ヲ管理セシムルコト」とされた。

明治9年には上の5名の外国人教師の具体的な人選が行われ、彼らは10月から11月にかけて赴任した。明治9年5月、農事修学場入学規則、生徒給養規則を定め、農事修学場に農学、獣医学の専門科と予科、試業科を設けた。開校準備が進む中、諸規定を各府県に示達し、各府県はこれを管内に示して志願者を募集した。農事修学場の構成は次の通りである。

明治9年10月9日〜11日、内藤新宿試験場において農学科・獣医学科の入学試験が実施された。試験は学科試験と体格診査で、学科は両科を通じて、国文読書(日本外史)、英語、究理学(物理学)初歩、算術、地理学、博物学大意、化学大意であった。試験の施行に当たっては、勧業寮に経験者がいないため、文部省に試験委員の借用が依頼されたという。試験の結果、農学科生は合格者20名、不合格者19名、獣医学科生は合格者30名、不合格者15名であった。予科および試業科の試験は、明治10年1月各府県で実施された。その内容は各府県に一任していたが、入学規則では試験方法を指示しており、予科は、(1) 身体強健にして天然痘または種痘をなせし者、(2) 読書(普通翻訳書の類)、(3) 算術(洋算分数比例)、(4) 習字(楷書草書)、(5) 英語(単語)、試業科は、(1) 身体強健にして天然痘または種痘をなせし者、(2) 国文読書、(3) 従前農事に従せし履歴書、(4) 五反歩以上の土地所有者およびその子弟、となっていた。明治10年1月、各科の入学者がそろい、農学生20名、獣医学生28名、予科生27名、試業科生29名が入学し、2月から授業が開始された。専門科の授業は、農業博物館を仮教場として行われ、その後、予科・試業科の授業が近隣の建家・i寺など)で開始された。 専門科生は試験場内の寄宿舎に入り、予科生・試業科生は近隣の寺を仮の寄宿舎とした。当時の学科の内容は以下の通りである。

予科 算学、文典、綴文及読法、英国史、地理学、幾何学、代数学、習字
農学 誘導篇、土壌の元始及天質(分科略之)、収納論、諸肥料用法(分科略之)、牧畜(同上)、農耕(同上)
獣医学 解剖科、原生科、組織科、家畜内外科臨時講義、家畜内外科実践、薬物科、薬効科、同上実践、家畜産科、生馬論及理馬総論、蹄鞋論実践
化学 無機化学(分科略之)、有機化学(同上)、農芸化学(同上)
授業は外国人教師により英語で行われたため、鈴木宗泰らが通弁を行った。通弁は、新聞広告で求人するなどして、6月ごろまでには、獣医学1名、農学1名、化学2名、予科1名を雇い入れ、すべて助教とした。

明治9年11月、農事修学場を駒場野に移すことが決定された。内藤新宿の農学修学場は狭く、またとくに外国人教師が、近くに宿場の遊里があって教育に適さないと主張したためと言われる。建築が始まっていた寄宿舎も急遽、駒場野で立て直すことになった。駒場野は、もともと将軍の狩場で、幕末には西洋流の調練を行い、明治には明治天皇が諸軍を率いて閲兵を行わせたこともあった。「東京名所図絵」(明治23年,博文堂)によれば、「駒場野は富士見坂の西道玄坂より乾(西北)の方一四、五町を隔て代々木野の続ぐ広原にて上目黒村に属す。雲雀(ヒバリ)、鶉(ウズラ)、雉子(キジ)、兎(ウサギ)の類多し。徳川氏の時は遊猟の地と定めらる。」と記している。正式な地名は、東京府荏原郡上目黒村駒場野。明治10年2月には測量が開始され、隣接する土地の購入、甲州街道から駒場野に至る馬車道の整備、寄宿舎、教師館、本校教室などの建物の建設が始まった。駒場野は、すでに明治4年におよそ8万坪が開墾され、明治6年からは、一部が牛馬の放牧場として利用されていたが、さらに、外国人教師ジェームス・ベクビーは、明治10年7月から10月に至る間、試業科の生徒を率い、英国農具の使用法、馬耕の技術等の演習を行って、駒場の荒蕪地5万3千坪の開墾を行い、これに「五穀蔬菜牧草の類を播種し骨粉乾鰯、人糞及尿、石灰、硫酸積肥、塩、油糟、糠麩、藁灰、籾糠、大豆等の肥料を施用し地質変化土壌沃饒ならしむに従事」(勧農局第三回年報)した。英国農具の使用や馬耕は当時珍しく、役人や一般人が見学に来たという。農学校の土地は、明治10年末には11万3333坪余に達しており、校地の半分近くを生徒の実労で整えたことは注目に値する。

明治10年10月、農事修学場は農学校と改称し、農学校規則、寄宿舎規則などを制定した。農芸化学科を加え、官費・私費の両生を置いた。全学科の官費生の合計定員を200名と定め、現員をすべて官費生にするとともに、私費生の募集を行った。12月には入学試験を行い、その結果、農学科生25名、獣医学科生18名、試業科生6名の入学を許した。12月になると主要な建物が完成し、開校の準備が昼夜兼行で行われた。

開校式の式場の見取り図
「駒場農学校等史料」より。


明治11年1月24日、明治天皇の行幸を仰ぎ、大久保利通内務卿臨席の下、開校式が盛大にとり行われた。開校式の様子は、「駒場農学校等史料」や、当時の新聞(東京日日新聞、読売新聞、郵便報知新聞)から知ることができる。当日午前7時には玄関の上に国旗を掲げ、その他所々には小国旗を飾り、校門玄関等には花飾りをした。9時には儀仗兵、陸海軍の楽隊が整列し、9時30分前までに皇族、大臣、参議なども到着。明治天皇は、午前9時、赤坂仮皇居を御出門、午前10時(午前9時45分?)農学校に御到着。休憩の後、式場に着御されると、大久保内務卿が、農学校規則、新校舎の図面および学校の鑰を奉呈。このとき、勅語を賜り鑰を内務卿に下した。内務卿は祝辞を奏上して鑰を学校長に渡した。内務卿の祝辞は以下の通りである。

茲ニ農学校建築竣ルヲ奏ス 龍駕忝ク親臨シ開校ノ典ヲ挙ゲ玉フ本校ノ光栄何ヲ以テ之ニ如カン恭シク惟ルニ本邦ノ農事ニ於ケル未ダ専ラ其ノ学ヲ講スルヲ聞カズ陛下聡明叡哲農学ノ急務ナルヲ知ラシメシ玉ヒ此校ヲ創建シ博ク万国ノ実験ト徴シ精ク庶・ィノ質性ヲ窮メ大ニ富民殖産ノ道ト興隆セシメ玉フハ実ニ生民ノ大幸ニシテ国家ノ洪福ト謂フベキナリ臣利通欽デ盛旨ヲ奉ジ敢テ其事ニ従フ豈感激黽勉(びんべん)セザルベケン哉猗歟(きか)我邦ノ農事トシテ駸々乎トシテ日ニ開ケ月ニ進ミ物産ハ益々繁殖ニ赴キ民生ハ益々富饒(ふじょう)ニ至ラシメンコトハ其レ今日ヨリ始ラン
  明治十一年一月二十四日 内務卿臣大久保利通謹ンデ祝詞ヲ奏ス

この後、外国人教師を代表してマックブライトが祝辞を述べ、後は、式場を出て、内務卿、勧農局長の先導で、農芸化学、農学、獣医の各生徒への授業、博物を一通り縦覧され、さらに午後1時に、馬牛羊豚舎の構造および馬耕術、寄宿舎等を車に乗ったまま通覧された。最後に玄関前で外国人教師への勅語があり、午後2時40分(午後1時45分出立?)、還幸された。

当日の天気は快晴(雲量1.2、降水量0)。開校式の模様を東京日日新聞(毎日新聞社蔵)は、次のように報じている。

「此日校門並に玄関には花飾をなし、門の内外は幾つとも無き小旗を掲げたるは如何にも目ざましく還幸の後は衆庶の縦覧を許されしゆゑ四方より集るもの幾千人といふ数を知らざりき」

また、郵便報知新聞によれば、

「同日駒場埜農学校の景状(ありさま)は表門を始め諸所の門に緑葉の飾りをなし国旗を打違いに掲げ玄関の正面には紫の幕を打回し御座所には大きやかなる花瓶(はない)けに種々の花を挿みたり式場には周囲に紅白の幕打回はし玉座は一段高く出来(しゅつら)ひて御後には金屏風を建回したる様如何にも花麗(はなやか)に見受けられたり又供奉の面々は勿論勧農局の諸官員外国教師及各新聞記者に至る迄孰れも洋食を賜り且午後に至り松方君には各新聞記者を誘導(みちび)きて各科教場等に至られ懇切に農事及牧畜の事を説明された」

その翌日の郵便報知新聞では、農学校設立の趣旨に関する勧農局長談を掲載した。

「勧農局長松方君が説明されしといふお話は駒場野に農学校を建設されし原因は農事及牧畜の盛になるは国益繁盛の基本なるは論を待たず且我国に於て醸製する物は何品に依らず其質の良悪より其原素は遡り之を分析研究する事を知らねば終に其用を狭くす譬へば草刈りて之を肥料になすも他に之を用ゆるの方を採らず酒迚も同じ用ひ方の一方に偏りたる品の多きを以て化学教場を設けてその現業を施行し又獣類多しと雖も之を畜養するを知らず・Dし畜養するを知るも病患の時之を医するを知らず外国にては獣医は随分上等に位するも本邦にては未だ曾て之を重ぜずされど実に此事の必要なるが故に獣医生徒を置き、本校中に牛馬其他の解剖を行ふ場所を設けたり且獣医を賤むるの風習あるを以て予科生徒とは呼びぬ將又本邦の農を業とする者の中には真に農事を研究錬磨せし者なれど此回勧農局に於て群馬県下船津村に住せる船津傳次平といふを雇ひ入れ本邦旧来の農事を生徒に教授し、外国人教師を雇ひて外国の農事を学び以て実地に就いて現業を施こし彼此の比較をとりて研究鍛錬なさしむべき為めに農学校を建築せり」

農学校の本校教室、教師館、寄宿舎などは洋式建築で、駒場に異人館ができたと世間の評判になっていた。開校当時の建物に限っても、その建築費は総額6万2千円以上であった。寄宿舎は、開校当時、2階建てのものが2棟建築されていたが、そのうちの1棟は、口の字型で、中庭は大谷石が敷き詰められ、1階の実習室と2階の寝室が1組になっており、各階の内側に外廊下があった。窓は上下開放式であった。こちらは関東大震災後に取り壊されたが、もう1棟は第一寄宿舎として弥生に移転するときまで使われた。生徒には、机、椅子、書棚、藁布団、毛布、蚊帳、釣りランプなどのほか、夏・冬の制服・制帽、雨衣、靴が不足なく給与され、薪炭油料、衣服洗濯補繕料も支給された。寄宿舎の食費は1人1日12銭5厘、週1回は牛肉が出されていたようである。農学校の施設はもとより、外国人教師を始めとする人件費、生徒への手当など、明治政府の農学教育、人材養成に対する並々ならぬ姿勢がうかがえる。

農学教場(本校教室)の建物図
国立公文書館蔵。上は正面からの外観、下は2棟分の間取り。外観は写真と若干異なっているようである。

生徒寄宿舎の建物図
国立公文書館蔵。関東大震災で被災した直後の写真が残っている。

農事修学場入学規則 農事修学場入学規則農学校入学規則
明治9年の農事修学場入学規則を明治10年に改訂したもの。


明治11年に改正された農学校規則では、農学校の構成は以下の通りである。

試業科については、「農技秀特者ヲ造成センガ為ニ、従前農業ニ従事セシ者ヲシテ直チニ実地ニ就キ専ラ耕芸ノ手術ヲ習熟セシムルノ学科タル故ニ、簡便ヲ主トシ国語ヲ以テ之ヲ教授ス」とある。農学校の当初の修業期間は、予科2年、専門科および試業科は3年であった。明治12年の学課目表(授業時間割)はこちらを参照されたい。試業科の日課は、毎日午前7時〜午後4時(土曜日は〜午前11時30分)にかけて、次のような構成であった。

泰西農術(毎日3時間、ベクビー氏教授)、本邦農術(毎日2時間、船津氏教授)、農芸化学(水曜、土曜以外の毎日1時間)、農学(土曜以外の毎日1時間)

農術の2課目は毎日午前、午後、交互に実施された。明治11年12月には、試業科が廃止されて、農事見習生となり、各自の請願により、駒場の農学校で勉学を継続したり、内藤新宿試験場に通って農産製造植物栽培を行ったりした。翌明治12年7月には予科も廃止された。明治13年1月には普通農学科が設置されたが、これは予科の代わりとも言えるもので、本科に進むにはここを卒業することを原則とした。これに伴い、専門科としての農学科は農学本科と呼ばれることになる。また、明治13年には、実地農芸科と植物病理学試験場が設置された。在学期間は、前者が2年で農場実習を主体とし、後者の実習生は3年であったが、これらはほどなく廃止された。以下に、明治13年の普通農学科と専門3科の課程を示す。ちなみに、明治13年改訂の英文の農学校規則には、農学校の英語名として「The Imperial College of Agriculture」と記されている。

普通農学科
第一年級 農学(土壌、肥料、農具の大意)、物理学(物体普通性、重学、音響学、熱学)、化学(無機化学)、植物学(組織、解剖、綱目)、動物学(動物序類、綱目)、数学(代数学、幾何学)、書学(自在書法)、記簿法(単記法)
第二年級 農学(収納、牧畜等の大意)、物理学(光学、磁学、電気学、気象学)、化学(有機化学)、分析化学(単易検質分析)、地質学大意、動植物生理学大意、数学(代数学、幾何学、三角法初歩)、書学(用器書法)、記簿法(複記法)
農学本科
第一年級 農学、地質学、植物学、動物学、測量術、高等数学、農場実習
第二年級 農学、獣医学大意、昆虫学大意、動植物生理学並病理学、土木工学大意、樹木培養法、農場実習
第三年級 牧畜並牛酪事業実習、園芸及樹木培養法実習、農場実習
農芸化学科
第一年級 農芸化学講義(農学と化学、地質学、鉱物学、動植物生理学、気象学との関係、化学的農芸地質学(土壌の元始等の数十項)、気象学(大気の成分及び気候等の数項)、植物生理学)、分析化学実習(検質分析(土壌、肥料、其他農産物等)、定量分析(同断))
第二年級 農芸化学講義(実施農芸応用法(耕助法、灌漑法等の数十項)、土壌産物(穀菽蔬菜等の成分、食物類の成分及び製造法等の数十項)、動物生理学)、分析化学実習(定量分析(土壌、肥料、其他農産物等))
第三年級 農芸化学実習(動物飼養実験、農場実験、農産物製造法実験)
獣医科
第一年級 解剖学講義及実習、動物生理学講義、無機化学講義、植物学講義、内外科原病学講義
第二年級 解剖学実習、動物学講義、有機化学講義、顕微鏡学講義及実習、内外科講義、同病者実習
第三年級 産科講義及実習、薬物学講義及製薬大意、生馬法理馬法実習、蹄鉄法

専門科生徒には、そのほか、農学生徒には農場の巡回日誌、獣医生徒には病畜舎日誌の作成が課せられた。授業時間に生徒の出欠を調べているが、各講義開始5分以内に、生徒の姓名を点呼し、応じなければ欠席と見なして、その帳簿を校長に開申した。届けが出ていなかったり、出ていても事情が欠席にふさわしくなかったりしたときは無断欠席と見なされ、無断欠席の数が1学期中3回を越えると、次の処分になった。「直ニ学校ヲ放逐シ在校中ノ諸経費ヲ追徴スベシ」 退学になった者については、「生徒ノ貫籍姓名事迹ヲ新聞紙ニテ頒告スベシ」とある。

明治11年の農学校規則では、授業は、祭祝日のほか、毎日曜日1日と水曜日半日を休業としていたが、その後、土曜日が半日となった。明治15年の規則では、授業時間は、1時間単位で、11月〜4月は午前9時〜12時、午後1時〜4時まで、5月〜10月は午前8時〜12時、午後1時〜3時であった。学年は、9月11日から翌年7月10日までで、第一学期は9月11日〜2月15日、第二学期は2月16日〜7月10日であった。また、夏期休業は7月11日〜9月10日、冬季休業は12月25日〜1月7日、さらに定期試験の後3日を休業とした。学年、学期、休業等の規程については、当時の東京大学法理文学部と同じである。

明治14年の農学校規則では「卒業生研究科」の章が新設され、各専門学科第三年の学科目に卒業論文が加えられた。卒業生研究科は、卒業生で既に修学した課目をさらに深く研究しようとする者は1年以上2年以内で継続して研究を続けることを許可するというものであった。その間は通学を原則とし、学資は自費、成果は論文にまとめて学校長に提出する義務があった。その後、研究科は1年を限度とする一方、場合によっては官費生と同様学資を支給するようにした。研究科の制度は、その後の大学院に通じる先進的なものと言える。

明治15年5月22日、農学校は正式に駒場農学校となった。それ以前にも「駒場農学校」と呼ばれ記録にも残っているが、駒場野の農学校ということで単なる通称であった。同年9月には駒場農学校職制を定め、普通農学科を予備学科に改めるとともに、農学科、農芸化学科、獣医学科を置くことを定めた。また、授与学位として農学士、農芸化学士、獣医学士の3種を初めて制定し、翌明治16年6月23日、開校以来の各専門科卒業生中、優秀者55名(農学士は玉利喜造ほか22名、獣医学士は西川勝蔵ほか29名、農芸化学士は澤野淳ほか4名)に学位を授与した。授与式は盛大にとり行われ、山県有朋ら参議6名、勅奏任官数十名、有栖川宮・北白川宮殿下の臨席のもと、農商務卿が学位証書を授与し、農務局長、駒場農学校長の祝辞、外国教師の演説、各専門科の代表者の答辞があった。


駒場農学校一覧 駒場農学校一覧


明治17年の駒場農学校一覧に記されている編成は、次の通りである。

第一条 農学校は農学農芸化学及獣医学の三専門科生徒を教育する所なり
第二条 予備学科を置き三専門科に入るの楷梯となす
第三条 各専門学科の課程を三周年とし之を六学期に分ち予備学科の課程を二周年とし之を四学期に分つ
第四条 各学科を教授するに邦語並に英語を以てす
第五条 獣医学別科を三田四国町に置き邦語を以て獣医学を教授す

駒場農学校になったときの編成をほぼ継承しているが、明治15年の編成では、「第五条 下総種畜場内へ獣医分科を仮設し国語を以て変則獣医学生徒を教す」となっていた。また、明治17年から、卒業論文は卒業試験に改められ、試験および評点のしかたが細かく規定された。学士の授与の可否も卒業試験の評点で決まることになり、卒業評点数85点以上の者に学士、それを下回る者に得業士を与えた。平均点が85点以上であっても、1課目以上、その数を下回るときには得業士となったが、得業士であっても学業研究の上試験を出願し、これに合格したときは学士を与えることとした。学士は、毎年、卒業生の過半数に与えられていたようである。なお、このときから、課目に毎年「歩兵操練」が課せられることになったが、翌年の改正で専門科については廃止になった。明治17年の学科課程と時間割はこちらを参照さ・黷スい。



外国人教師について

明治4年2月、民部省は「外国人ヲ雇用シテ農学ヲ創興シ開墾牧畜ノ方法ヲ講究ス」ることを太政官に稟議し、その裁可を得た。農学校の設立に向けて、大久保利通は、英国、ドイツ公使に依頼して人選に取り組んでいたが、明治8年12月には、専ら英国人教師を雇い入れることを決め、明治9年7月には、富田禎次郎を英国に派遣して、英国人教師5名との間に雇入条約を結んだ。以下がその5名である(括弧内は国籍と就任期間)。

これら5名の外国人教師は、明治9年10月から11月にかけて来日した。ベクビー以外の4名は、任期満了あるいは任期を延長して任務にあたったが、ベクビーは、駒場野の開墾では大いに活躍したが、やがて職務を怠ったり生徒を扇動したりしたことで任期半ばで解雇された。家族を伴って来日した予科教師のコックスは、予科が廃止されたとき、大学予備門の教師に転じたが、翌年、農学校に英語学の課目を置くことになり再び農学校を兼務することになり、20年近く日本に滞在した。そのほか、農学に関係の深い外国人教師として、ロバート・ウィリアム・アトキンソン(英国、明治7年9月9日〜明治11年9月8日、明治12年2月3日〜明治14年7月4日)が挙げられる。アトキンソンは、東京開成学校の教師として来日し、その後、東京大学理学部で教えたが、日本酒の醸造過程を化学的に分析し、「The Chemistry Of Sake-brewing」(明治14年)を著した。彼は、そのほか、染料や鉱物に関する化学的研究でも知られている。


左からベクビー、キンチ、マックブライト左からベクビー、キンチ、マックブライト


北海道の開拓に・ツいては、大久保利通は、米国式で行う方針をとり、明治4年、同藩の後輩である黒田清隆を米国に派遣し、拓殖の状況視察をさせ、農業指導者の顧問に当時米国の農務局長であったホーレス・ケプロン、畜産指導者にエドウィン・ダンを招いた。明治4年8月には、青山に北海道開拓使を設け、自ら長官となり、黒田清隆は副長官となった。ケプロンの進言により、まず学校を東京で開設することにし、明治5年3月仮学校を開拓使庁の隣に開校した。これは開拓事業の必要性を広くアピールする目的もあった。明治9年4月には米国からクラークを招き、8月に札幌農学校を開校した。

開校当初の講義を振り返って、農学校の第1回の卒業生で、卒業後教壇に立った玉利喜造は、「喜造等は純然西洋人に就て農業教育を受けたるものなれば亳も日本農業に於ける知識なかりし殊に其農学農法は英国牧畜の粗大農にして幾んど日本の現状に適用すべきにあらず。斯くて卒業後直ちに生徒教授の任に当る困難察すべきなり。プラオ、ハーロー、ファーロー、ロテーション、此等を何と和訳すべきや、果して其事物本邦に存在するや否や就て学ぶべき先輩の学士なく今日の如き試験場報告書なく」と書いている(農学会報213号)。教える側も学ぶ側も容易でなかった様子がうかがえる。英国人教師の後には、以下のドイツ人教師が招聘された。

家畜病院を開設し獣医学教育に多大な貢献をしたヤンソン、日本地産論を著し地質調査や農地改良の研究などで功績を残したフェスカ、土壌・肥料学の研究と日本の稲作改良に多大な貢献をしたケルネルらは、単に西洋の技術を伝えるだけでなく、日本の農業に根ざした研究を行い、またその長い滞在期間の中で、数多くの日本の農学者を育てた。その後、明治20年ごろから雇用された外国人教師も、ジョージソン以外はドイツ人であった。キンチとケルネルの事績、駒場の水田と米作肥料試験については、こちらを参照されたい。


以上、農学校・東京農林学校時代からの外国人教師は、ヤンソンが明治35年まで在任したのを除いて、ほとんどが明治20年代に退任しており、外国人教師から直接的に指導を受けた時代は明治20年代半ばをもって一区切りついたと言ってよい。このころ、農科大学に移行して講座制が整備されるにつれ、日本人の教授・助教授の就任も一般化していった。なお、その後も部分的に外国人教師による講義が行われた。

農科大学時代における最後の外国人教師がホーフマンであり、戦前の農学部では、ゴールドシュミットとアモンが教鞭をとった。


左から、ケンネル、ロイブ、フェスカ左から、ケルネル、ロイブ、フェスカ

左から、ヤンソン、グラスマン、マイエル

ヤンソンの写真は、「東京大学獣医内科学教室100年の歩み」より。


ヤンソンとケルネルの胸像は現在、東大農学部に置かれている。詳しくはこちら


泰西農場と本邦農場

外国人教師の招聘と合わせて、内務省は、明治7年、各府県に対して、「現業練熟且つ老練なる農学家」で「特秀なる者」の調査を命じ、明治8年には、農学、本草、養蚕の3科に特に優れた者の推薦を依頼し、農事指導に当たらせようとした。日本の農業の発展には、西洋の農法の導入と日本固有の農法の改良の両方が必要と考えたのである。そうした中から、群馬県赤城山麓で農業指導を行っていた船津傳次平が雇用された。船津は、富岡製糸場長の推薦もあり、明治10年10月23日、大久保利通内務卿が船津と直接会談し、その場で農事改良のために出仕するよう依頼された。同年12月24日、内務省に勤務となり、明治11年1月より農学校に登用された。ときに、船津は46歳であった。ただ、船津はすでにそれより前に内務省の命を受け、駒場野の土壌が農作に適するかどうかの検査を行うなど、農学校用地の選定に関与したという説もある。

農学校の農場は、泰西農場と本邦農場に区分されていた(明治17年の農学校の地図)。泰西農場では、主として西洋の耕作法を用い、5つの区画の中で、小麦、エン麦、亜麻、甜菜、牧草、空豆、甘藷、トウモロコシ、馬鈴薯などを栽培した。これに対し、本邦農場では、日本在来の耕作法の改良を目指し、夏蕎、里芋、大角豆、甘藷、韮、胡羅葡などを栽培した。この本邦農場を開いたのが船津傳次平である。明治11年の勧農局第三回年報によれば、明治11年2月から3月にかけて、1町8反の荒蕪地を開墾し、その地を試業科生徒授業園としたという。船津には、ベクビーの農業施設の利害得失を監査させるかたわら、試業科生徒に日本固有の農業を教授させた。さらに勧農局第四回年報によれば、「固有ノ農法ト西洋ノ農法トヲ分テ二部トナス固有法ハ船津傳次平ヲ教師トナシ試験地六町二反一畝十八歩穀菜各種ノ栽培ヲ試ミ洋法試験地ハ大約十二万五千八百二十八坪余別ニ放牧場九千九百二十六坪余斯ノ地ニ於テ混同農事ノ法ニ因リ試業生徒(即農事見習生)ヲシテ馬耕諸農具器械ノ運用耕耘栽培ノ方術ヲ講究セシムルノ場トス」とある。船津は、試業科廃止後も農事見習生(元試業科生徒で残っていた者)の指導にあたり、明治13年2月には、農事見習生33名に対して「混同農事修成証書」が授与された。船津は、日本の農法と西洋の農法を実験比較し、日本の農法を基礎として、これに西洋の農学・農法の長所を積極的に取り入れ、これを改良することを行い、いわゆる混同農事という新しい農法を創出・推進した。やがて、農学校の卒業生が集まって混同農会という研究会が生まれ、混同農会報告まで出すようになった。

その後、井上馨らにより駒場農学校で大農法の実用が要求されると、船津は、日本固有の農法の必要性を訴え、これに反対する。そのことの真偽、それが原因になったかどうか等については諸説あるが、明治18年、船津は駒場農学校を辞職し、翌明治19年、農商務省で農事研究に携わる一方、甲部普通農事巡回教師となった。船津は、農学校時代、明治14年ごろから各地をまわって農事講話のために出かけているが、生涯を通して、沖縄を除く各府県に出かけ、各地の農民に農事改良の必要性を説いた。その講演内容や問答の記録はあちこちに残されている。晩年は、西ヶ原農事試験場技手となり、明治31年6月15日66歳の生涯を閉じた。没後、西ヶ原の近くに桜の名所飛鳥山公園があったため、そこに故郷の赤城山に向かって「船津翁碑」が建てられた(現在の写真はこちら)。「明治三老農」の一人に称されている。船津は、農学校に赴任した当時、一人仮小屋に住まい、講義以外は実地開墾にいそしんだ。あるとき、大久保利通が船津を訪ね、仮小屋での一人住まいは心細かろう、といういたわりの言葉をかけたところ、次の句を詠んでこれに答えたという。「駒場野や 開き残しに くつわむし」

東京山林学校

明治3年より、ドイツのエーベルスワルデ山林学校で全課程を終えて明治8年7月に帰国した松野はざまは、山林学校の設立を企画するが、なかなか実現せず、明治11年1月、樹木試験場を設立することになった。これは、北豊島郡西ヶ原の民有地3町余を購入し苗木見本園、陳列室などを建設したもので、当初は、内務省地理局山林課の管轄下に置かれ、樹苗を栽培してその得失、風土の適否と成長の状態、木材の性質効用等の調査を行うことをその目的とするものであったが、一般人が理解しやすい実地の仕事により、林業に対する関心を高め、山林学校設立の機運を醸成しようというのがその本旨であった。

明治12年5月、内務省に山林局の本課内に林制掛とあわせて試験場掛が置かれ、林業の研究・教育、資料編纂がその要務とされた。樹木試験場は、各地から送られた樹苗の栽培・分与、各種の調査および試験、洋書の翻訳、研究所や目録の刊行などで成果をあげた。明治14年4月、農商務省が新設され、中に山林局が新設された。やがて、松野の訴えにより、山林学校設立の調査が開始されることになり、学務課が新設され、松野はその課長に命じられる。明治15年3月には学務課が樹木試験場内に移され、7月には、農商務省が太政大臣に、維新以来の乱伐でほとんど全国の林相が衰退しており、林学の研究が必要であることを訴え、10月、その設立が認められた。農商務省は学校設立費として金6000円を交付し、これにより、教場、化学教室、木材置場、学生寄宿舎が建築された。校名は東京山林学校と命名し、11月から事務を開始し、同時に山林局は廃止され、その業務は東京山林学校が行うこととなった。また、試験場も同校の附属となった。12月1日、開校式が農商務卿西郷従道臨場のもとに行われ、初代校長には松野はざまが就任した。松野校長の式辞は以下の通りであった。

夫れ山林の業は国家経済上の急務たるを以て進んで改良を企画すと雖も、我邦古来学術の未だ完全ならざるを以て、茲に東京山林学校を設置せられたり、因て之を広告し篤志者の募集に応ずる者凡そ百有余名、然り而して試験合格の者四十九名に及べり、其姓名録を具へ謹で之を閣下に呈す

農商務卿の告辞は以下の通りであった。

我邦気候地質最も植物に適応し山林も亦富国の基礎たるは論を俟たず、世人繁殖に黽勉すと雖も未だ改良の效を奏するに至らざるものは学術講究の闕くるに由れり、今東京山林学校を設置し以て学術と実業を併せ講ぜしめんとす、他年其人を成育し其実效を奏するに至っては其責校員に在り、学徒も亦其意を体し其業を研究して怠ること勿く以て国家の裨uを期せよ


山林局樹木試験場の周辺の地図山林局樹木試験場の周辺の地図
明治12年改訂「実測東京全図」より。
上の内藤新宿試験場の地図とほぼ同縮尺である。


東京山林学校の設立当初の修業年限は3年で、前期、後期に分かれていたが、明治17年、校則が改正され、5年、10級に延長された。各級課程(明治17年5月)は以下の通りである。

第十級 練兵術、代数学、幾何学、物理学、普通植物学、画学、実業(平素は本校構内に於て実習せしめ尚授業の都合に依り一時地方森林へ派遣し之を演習せしむ以下倣之)
第九級 練兵術、幾何学、普通植物学、普通動物学、金石学、物理学、化学、画学、実業
第八級 練兵術、記簿法、物理学、化学、地質学、製図学、三角術、分析化学、森林植物学、森林動物学、実業
第七級 練兵術、土性学、測量術、気象学、森林植物学、顕微鏡用法、森林動物学、測樹学、森林保護論、造林学、森林利用学、実業
第六級 練兵術、測量学、気象学、測樹学、森林保護論、造林学、森林利用学、林価算法、森林土木学 実業
第五級 練兵術、林価算法、森林較利学、森林設制学、森林禁樵論、理財学、森林法律、経済学、実業
第四級 練兵術、森林較利学、森林設制学、林政学、森林法律、理財学、経済学、実業
第三級 実地演習(専ら地方森林に在て学業を実習せしむ)
第二級 実地演習(同上)
第一級 実地演習(同上)


山林学校の学資はすべて自弁であったが、「学業優秀で品行方正なる者」は、官費で修業できる特典があった。生徒はすべて寄宿舎に入った。入学志願者の資格は、年齢18歳以上25歳以下、普通中学を卒業した者、平方立方以上の算術を理解し得る者、山林事業の概略を覚知せる者、品行端正にして2人の保証人がいる者普通中学卒業者の外は、和漢書(講義句点)、講義書取、作文(眞片仮名文)の試験に合格した者に限り入学を許した。明治17年には、教場における生徒の席は試験結果の順としている。

東京山林学校概則 東京山林学校概則東京山林学校概則
明治15年、東京山林学校を開設したときに各府県に示達されたもの。

明治19年4月、東京山林学校は駒場農学校とともに農商務省の直轄に移された。また同年5月、修業年限2年の速成科を置くことになり、その規則が制定された。速成科の目的は「林務に従事すべき官吏を養成する為に速に森林学術を習得せしむる」であった。しかし、同年7月22日には、東京山林学校は駒場農学校と合併し、東京農林学校となった。そのときの在校学生は126名であったが、山林学校は設立以来まだ卒業生を1人も出していなかった。合併にあたり、山林学校の地所、建物、立木は会計局へ、器具その他一切の事務は東京農林学校に引き継がれた。山林学校の敷地には、10月より蚕病試験場が移転し、さらに翌年4月蚕業試験場に改称した。


東京山林学校生徒
東京山林学校の生徒のほとんど全員と思われる。志賀・松本助教の欧州行に持参する写真ということで、全員制服で写すこととし、制服をもたない者は外套を借り図書用紙を切ってカラーにしたとのこと(「明治林業逸史続編」より)。東京山林学校の制服は、ドイツの森林官にならい緑色とされたが、色が突飛だったため、学生の間で青鬼と呼んだり、世間からは芋虫、青竹などと冷やかされることもあったりしたようである。


明治22年撮影の蚕業試験場 明治22年撮影の蚕業試験場
右手前が事務所、左が養蚕室である。事務所は、明治13年竣工の樹木試験場の事務所の建物(の一部)である可能性がある。


東京農林学校

明治19年7月22日、駒場農学校と東京山林学校が合併し東京農林学校となった。理由は経費の節減によるものと言われている。敷地、施設は、旧駒場農学校のものを使用した。東京農林学校には、農学部、林学部、獣医学部が置かれ、別に予備科と、各学部中に速成科を設置した。これにより、日本で初めての総合的な高等農学教育機関が誕生した。初代校長には元駒場農学校長の前田献吉、幹事には元東京山林学校幹事の奥田義人が就任し、駒場農学校と東京山林学校の教官がそのまま教育を行った。9月29日〜10月2日には両校の生徒の編入試験が行われ、生徒は志願する階級(予備科1年級から学部2年級)を選択して受験し、試験成績と旧来の成績とを対照して各級に編入された。

予備科は各専門学部に進むための予備課程で修業年限は3年であった。また各速成科の修業年限は2年であった。予備科と各学部では邦語のほか、英語、ドイツ語で授業が行われ、速成科は邦語に限られていた。明治20年12月28日には、学科制を採用し、学科を本科と予科に分け、本科の中に農科、獣医科、林科を置き、さらに速成科を簡易科と改め、従来の3科に加えて水産科を設けた。しかし、明治22年9月には、再び学部制を採用し、農学部、獣医学部、林学部を置き、各学部を本科と予科に分けた。従前の簡易科は各学部別科と改められた。農学部本科は農学科と農芸化学科の2学科で構成され、その別科中に水産専修科が置かれた。明治22年9月に改正された東京農林学校の課程を以下に示す。

農学部本科 (×は農芸化学生にのみ課す、*は農芸化学生には課せず)
第一年級 地質学、土壌学、農具論、植物営養論、化学総論(×)、肥料論、植物病理学、普通作物論、牧草論、農業土木(*)、定量分析(×)、農場実習(*)
第二年級 土地改良論、園芸学、工芸作物論、家畜飼養論、昆虫学(*)、養蚕学、家畜繁殖及管理論、植物生理及病理実験(*)、動物及昆虫学実験(×)、定量分析(×)、農場実習(*)
第三年級 家畜繁殖及管理論、獣医学大意、農業経済論、農産製造法、擬製品鑑定法(×)、日本農業論、農業行政、定量分析(×)、農場実習(*)
獣医学部本科
第一年級 解剖学、同実習、生理学、組織学、同実習、薬物科及治療論、蹄鉄法、同実習、外科手術学、病理通論、外科学
第二年級 解剖学実習、蹄鉄法実習、外科手術学、同実習、病理通論、外科学、寄生学、相馬学、内科学、家畜衛生管理論、動物疫論、病体解剖学、蹄病論、皮膚病論、調剤法、病院実習
第三年級 内科学、家畜衛生管理論、動物疫論、病体解剖学、同実習、産科学、獣医警察法、胎生学、病体組織学、眼科学、裁判獣医学、獣医歴史、臨床講義、病院実習
林学部本科
第一年級 独逸語学、高等数学、財政学、森林土木、林産製造法、地質学、森林土壌論、森林植物学、森林動物学、測樹術、実験
第二年級 独逸語学、造林学、森林行政、森林法律、林価算法、森林較利法、保護及撫育論、森林設制、森林利用学、実験
第三年級 独逸語学、造林学、森林法律、森林較利法、森林設制、森林利用学、資用権解除論、森林管理、森林統計、実験
各学部予科
第一年級 独逸語学、英語学、和漢文学、自在画学、化学、物理学、植物学、動物学、金石学、代数学、幾何学
第二年級 独逸語学、英語学、和漢文学、自在画学、化学、物理学、気象学、法律学、経済学、代数学、幾何学、三角術(農学林学志願者のみ)、解・ヘ幾何(林学志願者のみ)、骨靱帯筋学(獣医学志願者のみ)
第三年級 独逸語学、英語学、和漢文学、化学、定質分析、簿記学、測量術(農学林学志願者のみ)、製図学(同)、羅甸語学(獣医学志願者のみ)、骨靱帯筋学(同)、比較生理学(同)
農学部別科
第一年級 物理学、化学、農具論、土壌及土地改良論、肥料論、植物学及病理学、農場実習
第二年級 化学、植物学及病理学、動物学、昆虫学及養蚕論、普通作物論、園芸論、家畜繁殖飼養論、農場実習
第三年級 家畜繁殖飼養論、牧草論、森林学、工芸植物論、獣医学大意、農産製造論、農業経済論、農場実習
水産学専修
第一年級 物理学、化学、画学及製図学、海洋地文学、水産植物学、水産動物学、水産物育養法、水産物製造法、実習
第二年級 化学、水産動物学、漁具漁撈論、水産物育養法、水産物製造法、実習
第三年級 水産動物学、気象学、漁業律、実習
獣医学部別科
第一年級 化学、解剖学及組織学、生理学、薬物学及調剤法、蹄鉄法及蹄病論、蹄鉄法実習、家畜衛星管理論、外科手術学、家畜管理実習、臨床講義
第二年級 蹄鉄法及蹄病論、蹄鉄法実習、外科手術学実習、病理学、外科学、動物疫論並獣医警察法、寄生学、家畜管理実習、病院実習、臨床講義
第三年級 蹄鉄法実習、動物疫論・タ獣医警察法、屍体剖検法、産科学、相馬法、病院実習、臨床講義
林学部別科
第一年級 代数学、幾何学、三角術、画学及製図、化学(有機、無機、製造)、物理学(物理学、気象学)、森林土壌及地質、植物学(普通、森林)、実習
第二年級 動物学(普通、森林)、測量術、森林土木、測樹術、森林土木、造林学、森林保護及撫育論、森林設制、実習
第三年級 森林土木、造林学、森林利用学、簿記法、林中放牧論、森林設制、森林現行条規、実習

東京農林学校校則 東京農林学校校則 東京農林学校校則
明治22年の改訂版。東京大学史史料室蔵。


明治23年5月7日には、再び校則が改正され、本科を甲科、別科を乙科に改称し、各学部中に甲乙2科と予科が並置されることになった。また、水産専修科が農学部乙科水産科に改められた。「東京大学百年史通史一」によれば、明治22年11月に徴兵令第十一条が改正され、速成課程(別科、簡易科等の名称を付する)が徴兵を猶予されなくなり、翌年4月に入って東京農林学校の別科生徒が続々徴収される事態が発生したため、校則から「別科」、「簡易の教則」、「水産学専修」等の字句を排除することにしたという。そして、明治23年6月12日、東京農林学校はこの構成のまま帝国大学農科大学に改組されることになる。

下総牧羊場

明治8年9月、大久保利通内務卿は、海外の良種の牛馬羊を求め、種畜改良の基礎とし、西洋の農具を使用して、我が国の牧畜耕耘の事業を発展させることを目的として、下総に牧場を開設した。牧場は、下総牧羊場と取香(とっこう)種蓄場の2つから構成された。牧羊については、とくに大久保利通が日本の将来の衣服に羊毛は欠かせないとしてその増産を計画し、明治8年5月、内藤新・h試験場内に牧羊開業取調掛の仮事務所を置き、米国・英国から技術者の招聘を開始するとともに、牧羊修行生を募集した。一方、取香種蓄場は、牛馬の改良を目的とし、外国人技術者を招聘することはなかった。下総牧羊場と取香種蓄場は、明治13年1月、下総種蓄場として合併する。


内藤新宿出張所生徒入場概則 内藤新宿出張所生徒入場概則内藤新宿出張所生徒入場概則
明治8年、大久保利通内務卿の名前で出された牧羊修行生の募集。新宿歴史博物館蔵。

下総の牧場では、開設以来、多数の家畜が飼育されたが、病畜を少数の外国人技術者や陸軍の獣医で診察するのは困難となり、明治11年1月、獣医科を置き、各府県より募集した生徒に実地に即した教育をすることとなった。現在、三里塚にある獣医学実地教育創始記念碑は、これを記念して建てられたものである。明治12月4月には、各府県から徴集した、牧羊開業の目処のある生徒54名に、外国人技術者が主体となって、牧羊の方法および牛馬豚の管理、西洋の農具の使用法を講習し、3年後に卒業させて帰郷させた。明治13年11月には、新たに学制を設け、日本語で獣医学を教授することになり、農学校第1回卒業生である新山荘輔、三浦清吉を教師として迎えた。これは、農学校の獣医科に対し、変則獣医学科と呼ばれた。すでに、このころ、農学校獣医学科の実地教育はここで行われており、両者の関係はより密接になっていく。

明治15年2月、変則獣医学科は駒場農学校に属することとし、獣医学分科と改称した。さらに、明治17年2月、三田四国町(三田種育場の西北の一隅)に移転し、獣医学分科を獣医学別科に改め、従来の修業年限2年を3年として、入学試験に合格した者に限り入学させることにした。その後、明治18年7月、駒場農学校の獣医学科は、本拠を駒場から三田四国町に移したが、これは、「駒場が辺境の地で外来家畜のため不便であり生徒の実習に供する家畜も少ない」という理由によるものであった。しかし、その後、明治20年4月、再び駒場に復帰した。下総種蓄場は、明治18年、宮内庁下総御料牧場となり、駒場農学校以降も、獣医学科の実地教育に利用され、昭和10年以降は牧場実習に利用された。下総御料牧場は、昭和44年8月、成田空港建設によって牧場は栃木県に移転するが、その敷地の一部は現在、三里塚記念公園となっている。


下総御料牧場
「下総御料牧場史」より。成田市教育委員会蔵。三里塚御料牧場記念館の許可を得て掲載。



農学部にある肖像彫刻

東大農学部にある肖像彫刻を紹介する。


ヤンソン像
明治13年10月21日〜明治35年7月25日、駒場農学校、東京農林大学、農科大学とつとめ、農学部ゆかりの外国人教師としては最も長く日本に滞在した。家畜病院を開設し、獣医学の実地教育に多大な貢献をする。社交に長じダンスの名手で鹿鳴館時代の夜会に大いにもてたという。名誉教師の称号が与えられる。いったん帰国するが、再び来日し、盛岡高等農林学校、第七高等学校で教鞭をとり、鹿児島で没した。日本人と結婚。像は、明治35年大熊氏廣作。現在、動物医療センターの前に置かれている。

ケルネル像
明治14年11月5日〜明治25年12月31日、駒場農学校、東京農林大学、農科大学とつとめ、農芸化学の教師として、土壌・肥料学の研究と日本の稲作改良に取り組んだ。初めて名誉教師の称号が与えられる。日本人と結婚し、日本に永住するつもりであったというが、メッケルン農事試験場長に就任するようドイツからの強い要請があり帰国した。像は、大正4年朝倉丈夫作。現在、農学部3号館1階に置かれている。

松井直吉像
初代農科大学学長。明治8年に文部省第1回留学生として渡米。コロンビア大学鉱山学科に学ぶ。明治13年に帰国し、理学部化学科教授となり、明治23年6月20日、初代農科大学学長に就任。以後、明治44年2月1日に死去するまでその地位にあった。像は、大正3年新海竹太郎作。現在、農学部3号館1階に置かれている。


上野英三郎像
明治28年農科大学卒業、農業土木と農具研究を専攻。明治33年、講師となり、ドイツ、フランス留学後、明治44年に教授となる。わが国における農業土木、農業工学の創始者。大正14年、在職中に没した。忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。像は、昭和5年北村西望作。現在、農学資料館に陳列されている。


古在由直像
明治19年駒場農学校卒業。東京農林学校、農科大学とつとめ、ドイツ留学後、明治33年に教授、明治44年には農科大学長、大正8年には東京帝国大学初代農学部長となる。さらに大正9年には東京帝国大学では初の公選制により第10代総長に選ばれ、昭和3年に退官するまで8年あまりにわたって総長をつとめた。足尾銅山鉱毒事件の原因が銅山にあることを科学的に立証、日本酒・ビールの醸造研究により発酵学の創始者として大きな役割を果たしたほか、土壌・肥料の研究や家畜肥料、農事改良にも多大なる業績を残した。総長在任中に起きた関東大震災に際しては、甚大な被害を被った大学の復興と発展に多大な貢献をした。現在、農学生命科学図書館に立像が、農学部長室に頭像が置かれている。立像は作者不詳、頭像は、高田博厚作。


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