大学院農学生命科学研究科長・農学部長 堤伸浩

 わが国は、戦後幸いにして社会が豊かになり、食べることに困らず過ごすことができるようになりました。しかし世界を見渡し、歴史を振り返ってみるならば、この状況は当然なことではなく、これまでの関係者の努力といくつかの幸運な条件が積み重なって実現したことだと気づくはずです。

 人類が爆発的に人口を増やしたのはこの一世紀です。20世紀当初に16億半ばだった人口は今では80億を超えていますが、それを支えたのは農林水産業の革新的進歩による食料の大増産であり、近代農学が大きく貢献しています。その過程で食料生産に係わる人の数を減らせるようになり、他の産業で働く人を増すことになりました。その結果、産業振興が進み、世界は経済成長を果たすことができたのですが、食料生産の拡大はこのような社会の安定と発展の基礎になっているのです。

 ただ食料問題は解決した訳ではありません。100億人に向かって人口が増え続けていることもあり、途上国での栄養不足人口は下げ止まらず近年じわじわと増えてきています。しかしながら人類はさらなる食料増産に躊躇せざるを得ない状況にあります。過去の大増産は、環境面で脆弱な地域での農地開発、農業資材の多投入、水資源の枯渇、温暖化ガスの排出増、生態系の悪化などを引き起こしてしまい、代償の大きかったことが明らかになっているからです。

 過去の農学は食料増産という観点からは成功しましたが、それは生き延びるためとは言え、人類の傲慢な態度が現れていたと言わざるを得ません。現代の農学はその反省に立ちながら、最先端の生命科学や情報科学に支えられた、持続可能な食料生産を実現するための研究に取り組むことになりました。一方で世界は脱炭素社会を目指して社会の変革を推し進めようとしています。農林水産分野はバイオマス資源を有効に利活用して、あわせてこの課題に応えていく責務があります。

 持続可能な生産にとどまらず、せっかく生産された食料をいかに大事に利用するかも問われています。それに答えるため、効果的に栄養摂取を可能とし、食品ロスを削減し、そしておいしさを高めて食事を大いに楽しむことを目指す研究がおこなわれています。最新の農学は食の世界をさらに豊かにしていきます。

 これらの多岐にわたる問題へ取り組むため、科学の英知とそれに貢献する人材が世界中から求められています。持続可能な生産は、微生物から生態系までの生物ネットワーク内の相互関係に支えられています。それを研究するためには総合知を基礎にしたアプローチが必須となります。

 今まさに革新的な研究が農学生命科学研究科・農学部で行われています。ここには、自然科学から社会科学まで、直接、間接あらゆる立場から生物に係わる様々な分野の専門家が集っています。そして植物、動物、微生物そしてヒトに至るまで、生き物を徹底的に調べ上げ、人類社会の発展に役立つための基礎研究と応用研究を推進する教育研究拠点が形成されています。実験室とフィールドとが連携した研究が行われることも農学の特徴です。演習林や生態調和農学機構、牧場、水産実験所、動物医療センターなど附属施設が最大限に活用されています。

 本研究科では100を超える専門分野で生物・生命の謎を解明し続けていて、毎日どこかの研究室で、生命の神秘や驚異の仕組みを新たに発見して、心躍らせているのです。生き物が大好きな研究者にとっては、日々ワクワクするワンダーランドだと言えるでしょう。

 地球上の生物の共生と持続可能な世界の再構築は人類共通の目標になっています。われわれの農学研究はその課題に取り組み、すべての人々の幸福を実現するため、新たな産業の創出や社会システムの変革を目指していきます。人類にとって最重要課題である食料と環境をめぐる難問を解決して、次世代に明るい未来を手渡していくこと。それが私たちの使命です。

 

大学院農学生命科学研究科長・農学部長
中嶋 康博 (なかしま やすひろ)