大学院農学生命科学研究科長・農学部長 中嶋 康博

「生きものの力で現代社会の変革を目指す農学」

農学とは、私たち人類が自然の恵みを利用して生きていくための基盤を開発し発展させる科学です。

 国連によれば、人口は20世紀初頭に16.5億だったとされていますが、2022年11月にその数が80億を超えたと発表されました。この人口成長には、食料の大増産と栄養面の改善が大きく貢献しています。食料供給の拡大は、社会の安定と平和をもたらし、産業の振興と経済の成長の必要条件となっています。  近代農学は、20世紀において地球規模でみた無尽蔵な生物資源、天然資源を前提にする増産パラダイム型研究を発展させて、それが驚異的な食料増産を可能にしました。しかしその結果、窒素やリンの世界的な利用を促して過剰に環境中へ蓄積させることになり、温室効果ガスも増やすことになりました。生物資源とは他の生物の生命です。その利用や開発を通じて、都合のよい植物や動物だけを増やすことになり、生物多様性を脅かしてきたことも明らかになっています。人類が生き延びるための活動とは言え、このように農学は過去に傲慢な一面を有していました。

 ところで食料問題は解決した訳でなく、今も人口と食料需要は増え続け、いまだに世界には多くの栄養不良の人々が存在していて楽観できる状況にはありません。しかも20世紀における産業活動の膨張と市民生活の都市化の拡大によって、地球環境の変容が進んでいることから、これら食料問題解決のためにさらなる生物資源の減少、気候変動、生態系悪化につながるような単純な食料増産策は採用できなくなっています。20世紀末に関連する農学における各分野では、このことを認識し持続可能な生産を研究するためのパラダイムシフトに着手しています。

 生物資源が自然の恵みと言ってもよいでしょう。そしてそれは動物、植物、微生物による生物のネットワークから構成されています。現代の生物・生命科学では、それらの相互の共生関係も明らかになってきています。人類は生物資源の利活用のために、森林や海洋へ進出し自然界を改変して、農地や牧草地の開拓や漁撈の拡大、養殖場の開発を進めてきました。過度な開発は、もとある自然界に悪影響を与えたり感染症の拡大を引き起こしたりします。一方で都市と自然界との境界に存在する農地や森林は、自然の脅威から人々を守る防波堤になっています。そのようなことから、人類はいったん手を加えて創り上げた二次自然としての農地や森林などを適切に管理し続ける責任があります。

 生物資源は衣生活や住生活などに係わる食料以外の資材にも利用されてきましたが、20世紀にはそれらの資材の原料は石油を中心とした鉱物資源へとシフトしていきました。その結果、生活の利便性も生産性も大いに向上し、さらには都市社会を発展させる原動力になって、働き方や生活様式のあり方そのものを変革することになりました。それは不可逆的な変化だと思われてきました。しかしここにきてそこには持続可能性の面で深刻な課題のあることが認識され始めていて、その解決のためにバイオマスシフト、生物資源をもとにした社会を新たに構築することが期待されています。

 農学では、生物資源のポテンシャルを最大限活用した革新的な生産・利用技術の開発に取り組んでいます。この技術開発を通じて、社会と生活のモードチェンジを促し、新しい産業を創出するとともに、農村や田園を通じて自然の恵みを享受する豊かな社会づくりに貢献することも目指しています。そのため教育研究活動は、最先端の生命科学、情報科学に裏打ちされた観測技術、計測技術、解析技術を利用しながら日々進化しています。

 農学部のメンバーは生きもの好きです。対象とする生きものは作物、樹木、家畜、魚、鳥、昆虫、そして微生物など幅広く、そこにはヒトも入ります。生命への畏敬を決して忘れず、生きものをいつくしみ、優しい眼差しと支え合いをモットーにしながら、科学の進歩と社会の変革に取り組んでいます。皆さんがこのメンバーの一員に加わられることを願っています。

大学院農学生命科学研究科長・農学部長
中嶋 康博