発表者
堀尾 奈央 (東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員:研究当時)
村田 健  (東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員)
吉川 敬一 (東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員:研究当時)
吉原 良浩 (理化学研究所 脳神経科学研究センター システム分子行動学研究チーム チームリーダー/
                          JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト グループリーダー:研究当時)
東原 和成 (東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授/
                          JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト 研究総括/
                          東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)連携研究者兼任)

発表のポイント

  • 匂い物質(注1)が引き起こす好き・嫌い、誘引・忌避といった情動や行動が、嗅覚受容体レベルで規定される仕組みの解明を目指しました。その結果、一つ一つの嗅覚受容体(注2)は、好きや嫌いといった「価値(意味)」情報を持つことがわかりました。
  • 一般的に、匂い物質は複数の嗅覚受容体を活性化します。匂いが引き起こす情動や行動は、活性化されたそれぞれの嗅覚受容体が持つ「価値(意味)」情報が足し算され、そのバランスで決まることがわかりました。
  • ムスコン(注3)という匂い物質は、2種類のムスコン受容体それぞれがオスマウスにとって「好き」という情報を持ちます。また、(Z)-5-tetradecen-1-ol (テトラデセノール;Z5-14:OH)  (注4) という匂い物質は、3種類のテトラデセノール受容体のうち一番感度の高い受容体にはメスマウスにとって「好き」という情報が、一番感度の低い受容体には「嫌い」の情報が規定されており、両方を活性化した時は「嫌い」の行動が現れることが明らかになりました。薄い濃度では良い匂いだが濃くなると嫌になる現象を説明しています。
  • ヒトの嗅覚では、匂いの「価値(意味)」は匂いの「質」と同等ですが、本研究の結果は、一つ一つの嗅覚受容体には「レモンのような香り」「バラのような香り」など、匂いの「質」が規定されていることを示しています。ヒト嗅覚受容体400個それぞれに規定されている匂いの「質」を明らかにすれば、求めるフレーバー(食品香料)やフレグランス(香粧品香料)をスクリーニングしたりデザインすることが可能になると期待されます。

発表概要

 マウスは約1100種類、ヒトは約400種類の嗅覚受容体を持っていますが、一般的に1種類の匂い物質は複数の嗅覚受容体を活性化し、その結果、好き嫌い、誘引や忌避などの情動や行動が引き起こされることが知られています。しかし、匂いが持つ行動や情動といった価値情報が、嗅覚受容体レベルでどのように規定されているのか、例えば活性化された単一の嗅覚受容体で規定されるのか、複数の受容体が持つ価値情報の足し算なのか、あるいは受容体の活性化パターンが情報を規定しているのか、わかっていませんでした。東京大学大学院農学生命科学研究科/JST ERATO 東原化学感覚シグナルプロジェクトの東原和成教授らの研究グループは、香粧品に汎用される匂いであるムスコンとオスマウスの尿中の匂いであるZ5-14:OH(テトラデセノール)に着目して、この問題に取り組みました。
 ムスコンは2種類の嗅覚受容体、テトラデセノールは3種類の嗅覚受容体を活性化します。それぞれの受容体をノックアウトしたマウスを作製して解析した結果、ムスコンでは、2つの受容体それぞれがオスマウスにとって「好き」という価値情報を持っていること、テトラデセノールでは一番感度の高いテトラデセノール受容体は「好き」という価値、一番感度の低い受容体は「嫌い」の価値を持っており、両方の受容体が活性化される時は「嫌い」の忌避行動が表出することがわかりました。つまり、単一の嗅覚受容体が行動を引き起こす価値を規定していること、また、活性化された複数の嗅覚受容体の持つ価値情報の足し算とバランスにより最終行動が規定されていることが明らかになりました。
 この成果の応用面としては、例えば、ある匂いの「価値(意味)」、すなわちヒトの嗅覚では匂いの「質」、を規定する嗅覚受容体を見つけることができれば、その受容体をターゲットにその匂いを呈するフレーバー(食品香料)やフレグランス(香粧品香料)をスクリーニングあるいはデザインすることが可能となります。この概念は、より美味しい食品やより芳しい香粧品を創成するためのツールのひとつになることが期待されます。

発表内容


図1 嗜好・忌避行動に対する単一嗅覚受容体の機能
(左) ムスコンは、一番閾値の低い、つまり一番感度の高いMOR215-1と、感度の低いMOR214-3の2種類の嗅覚受容体を活性化します。MOR215-1ノックアウトマウスと2種類のムスコン濃度を用いた実験により、MOR215-1、MOR214-3それぞれ単独で活性化した時でも、両方を同時に活性化した時でも、嗜好行動を起こせることを明らかにしました。
(右) Z5-14:OH(テトラデセノール)は一番閾値の低い、つまり一番感度の高いOlfr288と、いまだ同定されていない2種類の嗅覚受容体を活性化します。Olfr288ノックアウトマウスに対して様々な量のZ5-14:OHを嗅がせたところ、Olfr288のみの活性化で嗜好行動を起こせること、一番閾値の高い、つまり一番感度の低い受容体の活性化は忌避行動を引き起こすことを明らかにしました。また、全てを活性化すると、Olfr288による嗜好行動は消失し、忌避行動が最終行動として現れました。

図2 嗅覚受容体が規定する匂いの質を利用したフレーバーの開発
嗅覚受容体①、③、⑤はそれぞれ「フルーティー」「甘い」「フローラル」といった匂いの質を規定しています。その結果、嗅覚受容体①-③を活性化する匂いAは「フルーティーな甘い匂い」、嗅覚受容体③-⑤を活性化する匂いBは「フローラルな甘い匂い」を呈します。匂い物質AとBに共通する「甘い匂い」を呈するフレーバーは嗅覚受容体③を指標として開発できます。

 生物にとって、外界のシグナルを感知し生存していくために、嗅覚は欠かせない感覚です。そのため、多くの生物は多数の嗅覚受容体を持っており、マウスでは約1100種類にも及びます。一般に、1種類の匂い物質で複数の嗅覚受容体を活性化し、例えばオイゲノールという匂い物質は約45個の嗅覚受容体を活性化します。近年、匂い物質に対して最も感度の高い受容体をノックアウトしたマウスでは、その匂いに対する感受性が下がることが明らかとなり (Sato-Akuhara et al., J. Neurosci., 2016)、単一嗅覚受容体と匂い感受性の関係が示されつつあります。
 匂い物質は嗅上皮の嗅覚受容体で感知された後、その情報は嗅球、脳へと伝わっていき、情動・行動を引き起こします。多くの匂い物質はマウスにとって好きでも嫌いでもない中立的な匂いですが、例えばオスマウスの尿に含まれているテトラデセノールはメスマウスに先天的嗜好行動を (Yoshikawa et al., Nat. Chem. Biol., 2013)、キツネの糞に含まれているチアゾール系の匂い物質はマウスに先天的忌避行動を引き起こすことが知られています (Kobayakawa et al., Nature, 2007)。この忌避物質は複数の嗅覚受容体を活性化し、そのうちの1つの嗅覚受容体をノックアウトしても忌避行動はなくならないことが示されています (Saito et al., Nat. Commun., 2017)。一般に匂い物質は数多くの嗅覚受容体を活性化するため、一つ一つの嗅覚受容体と匂いの好き嫌いの関係はこれまで明らかになっていませんでした。
 本研究では、比較的少数の嗅覚受容体を活性化する匂い物質であるムスコンとテトラデセノールに着目しました。これらの匂い物質を用いて、嗜好行動(「好き」)の観察に適しているTwo-choice odor-preference test(匂い選択嗜好テスト)という行動実験を行いました。この実験では、ケージに2つの穴が空いていて、その穴から匂いが吹き出しており、マウスがそれぞれの穴に興味を持って鼻を突っ込んでいる時間を測定します。また、嗜好と忌避行動両方の観察に適しているOdor investigation assay(匂い探索行動アッセイ)という行動実験も行いました。この実験では匂い物質をケージの床に置き、興味を持って匂い物質を嗅いでいる時間を測定しました。
 ムスコンは2種類の嗅覚受容体を活性化しますが、その2種類の嗅覚受容体を同時に活性化しても、またはそれぞれ単独で活性化しても、オスマウスに「好き」という嗜好行動を引き起こせることが明らかになりました(図1左)。一方、テトラデセノールは3種類の嗅覚受容体を活性化しますが、一番感度の高いテトラデセノール受容体だけを活性化すると嗜好行動が引き起こされ、3種類全てのテトラデセノール受容体を活性化すると忌避行動がおきました(図1右)。一番感度の高いテトラデセノール受容体がノックアウトされたマウスでは、テトラデセノールへの嗜好行動は消失しましたが、忌避行動は残っていました。つまり、テトラデセノールの一番感度の高い受容体は「好き」の価値を持ち、感度の低い受容体は「嫌い」の価値を持つ受容体であり、その両方を活性化すると「嫌い」になることが明らかになりました。
 嗜好・忌避行動など匂いの持つ価値が嗅覚受容体レベルでどのように規定されているかは不明でしたが、本研究で、それぞれの嗅覚受容体には匂いの「価値」や「質」などの情報が規定されていて、活性化される嗅覚受容体の持つ情報の足し算とそのバランスで情動や行動が規定されていることがわかりました。本成果はヒト社会での香りの開発に役立つ有効な知見を提供します。すなわち、一つ一つの嗅覚受容体には「レモンのような香り」「バラのような香り」など、匂いの「質」が規定されていることになりますので、ヒト嗅覚受容体約400個それぞれに規定されている匂いの「質」が明らかになれば、ターゲットの嗅覚受容体を見いだしてその匂いの「質」を持つフレーバーやフレグランスを開発することができます(図2)。本研究で明らかにした、匂いが持つ価値や質の情報を規定するしくみは、ヒト社会においてより美味しい食品やより芳しい香粧品を開発するために使える新しい基礎的概念となります。

発表雑誌

雑誌名
「Nature Communications」
論文タイトル
Contribution of individual olfactory receptors to odor-induced attractive or aversive behavior in mice
著者
Nao Horio, Ken Murata, Keiichi Yoshikawa, Yoshihiro Yoshihara, and Kazushige Touhara¶ (¶ corresponding author)
DOI番号
10.1038/s41467-018-07940-1
論文URL
https://www.nature.com/articles/s41467-018-07940-1

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
教授 東原 和成 (とうはら かずしげ)
Tel:03-5841-5109
Fax:03-5841-8024
E-mail: ktouhara<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp  <アット>を@に変えてください。
研究室URL:http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/

用語解説

  • 注1 匂い物質
    分子量300程度までの揮発性の低分子化合物で、自然界には数十万種類が存在するといわれている。官能基、炭素数、不飽和度などによりある程度は匂いの質は決まっているが、全く異なる構造を持つにもかかわらず匂いの質が似ているものや、構造が非常に類似していても匂いの質が異なるものが存在するなど、分子の構造と匂いの質との関係は完全には解明されていない。
  • 注2 嗅覚受容体
    嗅覚受容体は嗅上皮の嗅神経細胞に存在する7回膜貫通型Gタンパク質共役受容体である。匂い物質は嗅覚受容体により受容される。マウスは約1100種類の、ヒトは約400 種類の嗅覚受容体を持っている。一般に1種類の匂い物質は複数の嗅覚受容体を活性化し、1つの嗅覚受容体は複数の匂い物質によって活性化され、嗅覚受容体と匂い物質は多対多の組合せによって認識される。
  • 注3 ムスコン
    ジャコウジカの雄の鼠頸部の腺からの分泌物の主要な香気成分。分子量238の大環状ケトン構造を持つ。ジャコウジカでは性フェロモンとして機能している。非常に魅惑的な香りを呈することから、古くから香粧品に使われており、ムスコン用の香りを呈する匂い物質(ムスク香)の開発が盛んに行われている。ヒトに対しては性ホルモンの量の変化を誘発するなどの生理作用が報告されている。
  • 注4 Z5-14:OH(テトラデセノール)
    オスマウスの包皮腺から尿中に分泌されるオス特異的な匂い物質。脂肪酸の代謝産物と考えられている。