発表者
Singh Archana K (東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員:研究当時)
東原  和成(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト 研究総括/
       東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)連携研究者兼任)
岡本 雅子(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任准教授/
       JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト)

発表のポイント

  • 高密度脳波計測(注1)を用いた嗅覚誘発脳波 (注2) の評価により、匂いの快さに注意を向けているときの、ヒトの脳の活動の時間・空間的変化を明らかにしました。
  • 匂いの快さに注意を向けているときは、単に匂いを嗅いでいるときより、匂いを呈示してから700ミリ秒以降の脳の活動が高く、その変化は、右脳の中側頭回や、左脳の下前頭回、島などの領域の活動に由来することが推定されました(注3)。
  • 注意が脳における匂いの処理に及ぼす影響について、時間的変化と、脳における信号源を同時に明らかにした初めての研究です。本研究成果を発展させることによって、嗅覚に関わる脳機能をより詳しく調べる技術へつながることが期待されます。

発表概要

 食べ物や花の香りをめでたり、衣服が汗臭くないか確かめたり、私たちの生活の中では、匂いに注意を払う場面がしばしばあります。このように匂いに注意を向けるとき、脳における嗅覚情報処理は、どのような影響を受けているのでしょうか?これまでの研究において、匂いに対する注意は、匂い呈示後700ミリ秒以降に生じる、P3と呼ばれる嗅覚誘発脳波成分(注2)を増強することが報告されてきました。また、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた研究では、前頭葉や側頭葉の特定の領域の活動が高まることも報告されています。しかしこれまでの研究では、一連の脳活動のどのタイミングで、どの領域が影響を受けたかという、時間と空間の情報を同時に調べることは出来ていませんでした。本研究では、ミリ秒単位の高い時間分解能で脳活動を計測することができ、かつ、各時点における脳内の信号源を推定することも可能である、高密度脳波計測(注1)を用いることで、匂いへ注意を向けている際の脳活動の時空間的な動態を調べました。匂いへ向ける注意の度合いは、匂いの快さを評価する課題を課すことによって操作し、31名のボランティアの脳活動を測りました。その結果、匂いの快さに注意を向けているときは、単に匂いを嗅いでいるときより、匂いを呈示してから700ミリ秒以降の脳の活動が高まっていること、その信号源は、右脳の中側頭回、左脳の下前頭回、島などの脳領域であることが推定されました(注3)。嗅覚は、神経疾患であるパーキンソン病の前兆のひとつとして注目されており、ヒトの脳の嗅覚処理を非侵襲的に評価する手法は、社会的にも求められています。本研究成果を発展させることで、ヒトの脳における嗅覚評価のよりよい手法の開発につながることが期待されます。

発表内容


図1 脳波計測に用いた実験課題
実験に参加して下さったボランティアは、脳波の計測中に、匂いの快さを評価する課題(注意有条件)と、単に匂いを嗅ぐだけの課題(注意無条件)を行いました。


図2 匂いへの注意が嗅覚誘発脳波に与える影響
匂いの快さを評価する課題を行う条件(注意有条件)では、単に匂いを嗅ぐだけの課題(注意無条件)より、匂いを嗅いでから700ミリ秒以降の脳の活動が大きいことが分かりました。その変化は、右脳の中側頭回や、左脳の下前頭回、島などの領域の活動に由来することが推定されました。

 食べ物や花の香りをめでたり、衣服が汗臭くないか確かめたり、私たちの生活の中では、意識して匂いに注意を払う場面がしばしばあります。このように、意図して向ける注意のことを、トップダウン型の注意(注4)と呼びます。トップダウン型の注意は、脳での情報処理を促進する機構として、視覚、聴覚など様々な感覚を対象に研究されてきました。嗅覚に関しても、トップダウン型の注意によって、匂いに対する判断が早くなるなど、注意を向けることによる効果が報告されています。では、匂いに対するトップダウン型の注意の影響は、脳における匂いの処理のいつ、どこで生じているのでしょうか?

 ヒトの脳における嗅覚の処理を調べる手法に、脳機能イメージングがあります。匂いに対する注意についても、脳機能イメージングの一手法である、脳波計測によって、匂い呈示後700ミリ秒以降に生じる、P3と呼ばれる嗅覚誘発脳波成分(注2)が増強することが報告されていました。しかしP3は頭表の電極で計測された信号であるため、P3の増強が、脳のどの領域の活動に起因しているのかは不明でした。一方、脳のどの領域で活動が生じたかを調べることのできる機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた研究では、匂いに対するトップダウン型の注意によって、前頭葉や側頭葉の特定の領域の活動が高まることが報告されています。しかし、fMRIは時間的分解能が低いため、特定の時間帯に限定して、関与する脳の領域を特定することは困難でした。これに対し、近年開発が進んできた高密度脳波計測では、信号源推定アルゴリズムを適用することにより、脳波の高い時間分解能を生かしつつ、各時点における脳内の信号源も推定することができます。そこで、私たちは、高密度脳波計測により、匂いに対するトップダウン型注意の時空間的な動態を調べることを計画しました。

 実験には、単に匂いを嗅ぐだけの条件と、匂いを嗅いで、その快さを評価してもらう条件を設けました(図1)。匂いを評価する課題では、その匂いの快さの度合いを判断する必要があるため、匂いを嗅ぐ場合より、匂いに強い注意を向けることになります。そこで、これらの二つの条件における脳活動を比べることにより、トップダウン型注意に関わる脳活動を調べることができます。このように、匂いに対する評価課題の有無で注意のレベルを操作するという実験デザインは、これまでの匂いへのトップダウン型注意をしらべた脳機能イメージング研究と同じです。31名のボランティアの脳活動を分析した結果、注意レベルが高い条件では、低い条件より、刺激呈示後700~1300ミリ秒後の嗅覚誘発脳波の振幅が有意に大きくなっていることが分かりました(図2)。この結果は、これまでに報告されている、匂いに対するトップダウン型注意に関する研究の結果と一致していました。次に、この時間帯の信号源を推定(注3)したところ、右脳の中側頭回や、左脳の下前頭回、島などの脳領域の活動が高まっていることが分かりました。これらは、fMRIを用いた先行研究において、匂いの快さに注意を向けているときに活動が高まることが報告されている領域でした。これらの結果が匂いへの注意に関わることを確かめるために、同様の実験を、匂いのない空気を用いて行ったところ、先に述べた脳領域の活動に対する注意の影響は認められませんでした。これらのことから、匂いの快さにトップダウン型の注意を向けると、匂いを嗅ぎ始めてから700ミリ秒以降に、前頭葉や側頭葉を中心とする領域の活動が高まることが分かりました。

     本研究では、高密度脳波計測を用いることにより、匂いの快さにトップダウン型の注意を向けている際の、脳活動の時間・空間的な動態が明らかにしました。脳における情報処理は、脳の各領域においてミリ秒単位の短い時間で推移しているため、脳の働きを調べる上では、脳のどこで、いつ、活動が生じているかを調べることは大切です。今後、高密度脳波計測による嗅覚誘発脳波計測を発展させることにより、中枢性の嗅覚疾患など、ヒトの嗅覚の評価のための計測法の開発につながることが期待されます。

発表雑誌

雑誌名
Scientific Reports」(オンライン版:3月20日付予定)
論文タイトル
Electrophysiological correlates of top-down attentional modulation in olfaction
著者
Archana K. Singh¶, Kazushige Touhara and Masako Okamoto¶ (¶ Corresponding authors)
DOI番号
10.1038/s41598-019-41319-6
論文URL
https://www.nature.com/articles/s41598-019-41319-6

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
特任准教授 岡本 雅子(おかもと まさこ)
Tel:03-5841-8043
E-mail:a-okmoto<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。

用語解説

  • 注1 高密度脳波計測
    高密度脳波計測とは、頭表上に64か所~256か所程度の多数の電極を装着して脳波を計測する手法を指す。脳波とは、頭皮上に装着した電極において、脳の神経活動に起因する電位変化の総和を計測する手法で、少数の電極でも計測が可能である。しかし、高密度計測を行うことで、頭表上での電位の分布の空間的なパターンをより詳細に分析したり、脳における信号源を、より精密に推定したりできるという利点がある。このため、脳活動の空間的な情報を解析したい場合に、高密度脳波計測が用いられている。
  • 注2 嗅覚誘発電位
    嗅覚刺激を受容した時に生じる脳波。一般には、匂いを200~500ミリ秒程度の短時間呈示し、その際の脳波の変化を計測することで評価する。生じる電位変化は小さいため、何度も繰り返して計測し、それらを平均することで、信号対雑音比を高めた上で評価する。耳朶付近を基準電極とした場合、嗅覚刺激呈示後、300~500ミリ秒にN1と呼ばれる負の電位変化、500~700ミリ秒後および700~1300ミリ秒後に、それぞれP2、P3と呼ばれる正の電位変化を示すことが知られている。
  • 注3 信号源推定
    頭表で観測された脳波が、脳のどの領域の活動によるものかを推定する解析手法。頭表の電極で計測される電位の大きさは、信号源と電極の間の距離だけではなく、脳内で発生した電流と電極との角度、電極に到達するまでの頭蓋骨や脳脊髄液の厚さなど多数の要因の影響を受けるため、脳波の信号源は一義的に計算することができない。そこで、頭部組織の構成やその伝導率などをモデル化することで、信号源を推定する手法が多数開発されてきた。本研究では、とりわけ脳の深部の信号源推定にも適すとされるsLORETA (standardized Low Resolution Brain Electromagnetic Tomography)法を用いた推定を行った。
  • 注4 トップダウン型の注意
    注意には、強烈な匂いがおのずと注意を引く場合のように、刺激の特性が注意を誘起させるタイプの注意もあれば、ヒトが自分の意思で注意を向ける場合のような、意図的な注意もある。認知心理学の分野では、前者をボトムアップ型の注意、後者をトップダウン型の注意と呼ぶことが多い。本研究では、トップダウン型の注意を研究対象とした。