発表者
吉本  翔 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 博士課程 3年)
加藤 大貴 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 特定研究員)
中川 貴之 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 准教授)
西村 亮平 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 教授)

発表のポイント

  • 犬肛門嚢腺がんの組織では、正常な犬肛門嚢腺の組織に比べて、ヒト上皮成長因子様受容体2 (HER2)が高発現していることを発見しました。
  • 約80%の犬の肛門嚢腺がんの症例で治療標的となり得る発現レベルでHER2が高発現していました。
  • これまで研究の進んでいなかった犬の独自のがんである肛門嚢腺がんの治療法の開発や病態解明につながる重要な候補分子が同定されました。

発表概要

 東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻の西村亮平教授らの研究チームは、犬などの食肉目にのみ存在する器官である肛門嚢腺に由来し、予後の悪いがんである肛門嚢腺がんの治療標的を探索し、その候補分子としてヒト上皮成長因子様受容体2 (HER2)を同定しました。犬はヒトと同様に多くのがんが発生し主要な死亡原因となっています。がんの臨床的な挙動は発生臓器に大きく依存しています。これまでに、犬のがんも発生臓器ごとにヒトのがんと類似した挙動を示し、同様の治療法が犬にも適用できることがわかってきました。
 しかし、犬独自の器官である肛門嚢(注1、臭袋)にできる稀ながんである肛門嚢腺がんはヒトで相同な器官が存在しないために、ヒトで発生することがなく、十分な研究は進んでいませんでした。したがって、効果的な治療法も少なく、肛門嚢腺がんに罹患した犬の多くはがんの転移により1-2年ほどしか生きられませんでした。本研究グループは犬肛門嚢腺がんの組織検体の解析を行い、およそ80%の検体でHER2が高発現していることを発見しました。HER2の高発現は原発巣のみでなく、転移巣においても確認されたことから、いままで研究の進んでこなかった犬独自のがんである肛門嚢腺がんの治療法の開発や病態解明につながる重要な発見です。

発表内容


図1 犬肛門嚢腺がん組織では正常な肛門嚢腺組織に比べて、10倍近くのHER2遺伝子が発現していた
 定量的PCR解析により、犬肛門嚢腺がん組織(6検体)と正常肛門嚢腺組織(4検体)のHER2遺伝子発現量を解析した。がん組織で正常組織に比べ、HER2遺伝子の有意な高発現を認めた (* p<0.05)。

図2 犬肛門嚢腺がんの原発組織、転移組織ともにHER2が高発現していた
 免疫組織染色により、犬肛門嚢腺がんの原発及び転移組織のHER2発現を解析した。線維芽細胞に縁取られたがん細胞がHER2発現を示す茶色に染色された。

表1 犬肛門嚢腺がん組織の80%でHER2の強い発現を認めた
 原発組織25検体のHER2発現を免疫組織染色とヒト乳がんのHER2発現スコアを用いて解析したところ、全ての症例でHER2発現を認め、うち80%の症例ではHER2の強い発現を認めた。

【研究背景】
 国内ではおよそ1000万頭の愛玩犬が飼育されており、いまや15歳未満の子供の数に匹敵します。近年、獣医療の向上にともない飼育犬の寿命が伸び、ヒトと同様に悪性腫瘍(がん)は主要な死亡原因となっています。犬で比較的、高頻度に発生するがんはヒトと相同な器官を由来とすることが多く、それらのがんの特徴はヒトと犬で非常によく似ています。また、それらヒトと相同ながんで用いられている薬剤を犬に応用することができ、類似の治療効果が得られています。
 一方、犬独自の器官である肛門嚢に由来する肛門嚢腺がんは、犬独自のがんであり、これまで十分な研究が進んでいませんでした。犬肛門嚢腺がんはお尻と腸の境界部にある肛門嚢という器官から発生し、進行すると排泄や排尿が困難となります。最も有効な治療法は手術でがん細胞を全て取り去ることですが、近くに重要な臓器が多く完全に取り去ることができるのは稀です。さらに、様々な治療を施しても多くの症例で全身への転移が生じ、肛門嚢腺がんに罹患した犬の多くは1-2年ほどしか生きられません。これまで、有望な治療標的が見つかっておらず、新たな治療標的の解明が望まれていました。
 本研究グループは、東京大学附属動物医療センターに来院し、手術で採材した犬肛門嚢腺がんの検体の解析を長年行い、治療標的候補の同定に成功しました。
【研究の内容と意義】
 飼い主さんの了承を得た上で、手術で採材した犬肛門嚢腺がんの検体を用いて、複数の候補分子の発現を正常の肛門嚢腺組織と比較しました。その結果、ヒト上皮成長因子様受容体2 (HER2)と呼ばれる分子が10倍近く高発現していることを発見しました【図1】。
 HER2はヒトの乳がんなどでも発現が認められており、治療の標的として用いられています。そこで、25頭のさまざまな犬種の犬肛門嚢腺がんの組織におけるHER2の発現の強さと分布を解析したところ、多くの犬種で一様のがん細胞にHER2の強い発現を認めました。およそ80%の症例ではヒト乳がんの診断で用いられているHER2発現スコア2以上の強い発現を認め、ヒト乳がんで用いられている薬剤の適用が可能なレベルであると考えられました【表1】。
 犬の肛門嚢腺がんは高頻度でお腹の中のリンパ節や肺などに転移し、それを防ぐ有効な治療法はありません。そこで、手術で採材した犬肛門嚢腺がんの原発組織と転移したリンパ節組織におけるHER2の発現を解析したところ、原発組織、転移組織ともに同程度のHER2発現を認め、HER2は転移したがん細胞の治療標的にもなると考えられました【図2】。
 HER2陽性のヒト乳がんでは抗体薬または内服薬の2種類の異なる薬が高い治療効果を示しています。その一つの薬剤である抗体薬を用いた犬肛門嚢腺がんの治療への応用の可能性を検証しました。その結果、抗体薬(トラスツヅマブ)は犬肛門嚢腺がん細胞に強く結合することがわかり、今後この抗体薬を犬に投与できる形に改良することで、新しい治療法になることが期待されました。
【結論と展望】
 本研究は犬独自のがんである肛門嚢腺がんの治療候補分子として、HER2を初めて同定しました。HER2は種々のがんの増殖に関与していることが報告されており、ヒトのがんではHER2を標的とした、いくつかの薬剤の治療効果が明らかになっています。本研究成果はHER2を標的とした犬肛門嚢腺がんの新しい治療法開発や病態解明につながると期待されます。 

発表雑誌

雑誌名
The Journal of Veterinary Medical Science」(オンライン版:5月29日)
論文タイトル
Detection of HER2 overexpression in canine anal sac gland carcinoma
著者
Sho Yoshimoto, Daiki Kato*, Satoshi Kamoto, Kie Yamamoto, Masaya Tsuboi, Masahiro Shinada, Namiko Ikeda, Yuiko Tanaka, Ryohei Yoshitake, Shotaro Eto, Kohei Saeki, James Chambers, Ryohei Kinoshita, Kazuyuki Uchida, Ryohei Nishimura, Takayuki Nakagawa
DOI番号
10.1292/jvms.19-0019
論文URL
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvms/advpub/0/advpub_19-0019/_article/-char/en

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 獣医外科学研究室
教授 西村 亮平(にしむら りょうへい)
Tel:03-5841-5405
Fax:03-5841-5405
E-mail:arn<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。 

用語解説

  • 注1 肛門嚢(臭袋)
    犬や猫など食肉目に存在する器官であり、肛門と直腸の境界部に袋状に1対で存在する。フェロモンなど動物のコミュニケーションに関わる臭い物質を作っている。