発表者
喜田  聡(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 教授
/文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究(研究領域提案型))「マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出」領域代表)
石川 理絵(東京農業大学生命科学部 博士研究員)
内田 千晶(東京農業大学大学院農学研究科 修士課程;研究当時)
古屋敷智之(神戸大学大学院医学研究科 教授)
北岡 志保(神戸大学大学院医学研究科 講師)

発表のポイント

  • マウスPTSDモデルにおいて既存の治療薬メマンチン投与によりPTSDの原因であるトラウマ記憶を人為的に忘却させると、PTSD症状までもが改善されることが初めて示された。
  • PTSD治療方法は長期間の医師と患者の繰り返しの面接を必要としていたが、メマンチン(認知症治療薬)を服用するだけでよく、面接を必要としない治療が可能になる。
  • 患者と医師の面接を必要としないこの方法を応用すれば、震災時などに多数のPTSD患者を同時に治療することも可能になる。

発表概要

 心的外傷後ストレス障害(PTSD)は生死に関わるようなトラウマ体験(恐怖体験)を原因とする精神疾患です。現時点でPTSD治療薬は開発されていませんが、PTSDの有効な認知行動療法として「持続エクスポージャー療法」(注1)が知られています。しかし、この持続エクスポージャー療法では医師と患者が面接し、患者が繰り返しトラウマ体験を思い出し語る中でPTSD症状を抑えていくため、長期間を要し、また、患者と医師双方に大きな負担がかかっています。以上の背景の中で、東京大学大学院農学生命科学研究科の喜田聡教授らは、マウスのPTSDモデルを用いて、トラウマ体験後にNMDA型グルタミン酸のアンタゴニストであるメマンチン(注2)を投与してトラウマ記憶の忘却(注3)を促進した結果、トラウマ記憶忘却のみならず、トラウマ体験による病的症状(不安の亢進)までもが改善されることを示しました。この結果は、メマンチンの記憶忘却効果を利用することで長期間の面接することなく、投薬だけでPTSDの精神症状を改善できる、すなわち、患者と医師の負担を大きく軽減させた新しいPTSD治療方法を提示したことになり、PTSDが多く発症する震災時などの対策にも有効と言えます。現在、この方法を用いて国立精神・神経医療研究センターにおいて臨床試験も行われています。

発表内容



 心的外傷後ストレス障害(Post traumatic stress disorder; PTSD)は生死に関わるトラウマ体験の記憶(トラウマ記憶)を原因とする精神疾患です。PTSDの主症状は、トラウマ記憶の自発的かつ繰り返しの想起(フラッシュバック)、不安やうつなどの精神症状です。現在、PTSDの治療薬はなく、(症状を軽減する)対症療法にて投薬が行われています。一方、PTSDの有効な認知行動療法として「持続エクスポージャー療法」が開発されています。この治療では医師と患者が面接し、患者が繰り返しトラウマ体験を思い出し語る中でPTSDの精神症状を改善する方法です。しかし、有用である反面、繰り返しの面接が必要となるため、長期間を要し、また、患者と医師双方に大きな負担がかかる点が問題です。
 以上の背景のもと、喜田聡教授らのグループは、マウスでは脳の海馬で起こっている神経細胞の新生(神経新生)を促進すると記憶が忘却されることに着目し、この記憶忘却効果によるPTSDの改善方法の開発に取り組んできました。これまでに、NMDA型グルタミン酸受容体の拮抗薬(アンタゴニスト)であり、現在認知症治療薬として使われているメマンチン(MEM; 注2)投与による海馬神経新生(注4)の促進によって記憶の忘却が促進されることを示しています(Ishikawa et al., 2016;特許出願)。本論文では、マウスのPTSDモデルにメマンチンを投与した記憶忘却効果の影響を明らかにしました。現在世界的にうつ病モデルとして使用されている社会的敗北ストレス課題に着目し、この課題を初めてPTSDモデルとして採用しました。この課題では、マウスが威嚇行動を示す体格の大きなマウス(大型マウス)に繰り返し曝露されることで、大型マウスを記憶し、さらに、不安の増強などの顕著なPTSD様症状を示します。
 1日10分間、10日間連続で、小型の雄成獣マウス(C57BL/6系統)に、(個別飼育により)威嚇行動を示す大型の雄成獣マウス(ICR系統;大型マウス)を曝露させました(社会的挫折処置=トラウマ体験モデル)。その後、オープンフィールド内に設置した筒の中に入れた大型マウスに対する忌避行動を測定し、大型マウスを記憶しているか評価した結果、トラウマ体験マウスは大型マウスに近寄らず、また、距離をおくことが明らかとなり、大型マウスに対する記憶(社会忌避記憶)が観察されました。また、高架式ゼロ迷路課題(壁のない通路と壁のある通路がある円形迷路を床上50cmに設置)により、不安行動を評価した結果、トラウマ体験マウスは高所を怖がり(壁のない通路を避け、壁のある通路を好む)、PTSD様の不安行動も認められました。その後、メマンチンを1週間毎に計4回投与した結果(この間は投薬のみ)、再び、メマンチンを投与されたマウスは大型マウスに近寄る行動を示すようになりました。すなわち、メマンチン投与による社会忌避記憶の忘却が認められました。最も重要な点として、メマンチン投与後に、高架式ゼロ迷路課題において、不安行動の改善も観察されました。さらに、大型マウスにもう一度10分間曝露させても、社会忌避記憶の回復は認められず、社会忌避記憶が強く忘却されていることも示唆されました。以上の結果から、メマンチン投与が社会忌避記憶の忘却のみならず、PTSD様の不安行動も改善することが示されました。
 以上のように、マウスPTSDを用いた解析から、メマンチンを用いたトラウマ記憶忘却によるPTSD治療方法の有効性が示唆されました。この方法をPTSD治療に用いると、持続エクスポージャー療法にように継続的な医師との面接が必要ではなくなるため、持続エクスポージャー療法を大幅に短縮させる、あるいは、医師との面接が必要ではなくなる可能性も考えられます。例えば、震災には、多くの人が一度にPTSDを発症する可能性があり、PTSDの患者の治療が困難を極めると想像できますが、この方法を用いれば一度に多くのPTSD患者を治療することが可能となります。現在、メマンチンを用いた臨床試験も行われており、その成果が期待されます。
 本研究は文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究(研究領域提案型)「マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出」、「マルチスケール精神病態の構成的理解」、「多様な「個性」を創発する脳システムの統合的理解」、「行動適応を担う脳神経回路の機能シフト機構」、科研費挑戦的研究、科研費基盤研究Aなどの支援により行われました。

発表雑誌

雑誌名
Molecular Brain
論文タイトル
Improvement of PTSD-like behavior by the forgetting effect of hippocampal neurogenesis enhancer memantine in a social defeat stress paradigm
著者
Rie Ishikawa1, Chiaki Uchida1, Shiho Kitaoka2, Tomoyuki Furuyashiki2, Satoshi Kida1,3*(1東京農業大学生命科学部、2 神戸大学大学院医学研究科、3東京大学大学院農学生命科学研究科)
DOI番号
10.1186/s13041-019-0488-6
論文URL
https://doi.org/10.1186/s13041-019-0488-6

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻
教授 喜田 聡(きだ さとし) 
Tel: 03-5841-5118
E-mail: akida<アット>g.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。

用語解説

  • (注1) 持続エクスポージャー療法
    医師と患者が1対1で面接し、患者がトラウマ体験を繰り返し語る。トラウマ体験を繰り返し語る中で、PTSDの症状が軽減していく。患者は辛い経験を繰り返し語り、また、録音したものを繰り返し聞くセッションも含まれている。長期間の面接を必要とするため、医師と患者双方に負担が大きく、多数の患者を一度に治療することが困難である。
  • (注2) メマンチン
    NMDA型グルタミン酸受容体の過活性を抑えることで、認知症の進行を抑える治療薬として用いられている。近年、このメマンチン投与により海馬神経新生が亢進することが示され、本論文ではこの作用を利用した。
  • (注3)記憶の忘却
    記憶を忘れることである。最近の研究から、「記憶を忘れる」ことも我々の脳の(ポジティブ、かつ、アクティブな)働きの一つである、すなわち、記憶を忘れることを脳がコントロールしていることが明らかになりつつある。本研究では、海馬神経新生を促進すると記憶の忘却も促進される現象を利用した。
  • (注4) 海馬神経新生
    海馬の歯状回と呼ばれる領域では、絶えず神経細胞の産生が行われており、新しい神経細胞が供給されている。生まれたての神経細胞は新しく記憶する能力が高い反面、既存の記憶を忘れさせる働きを有していることが明らかとなっている。