発表者
奥村 俊樹(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 博士課程1年)
熊崎 博一(国立精神・神経医療研究センター 精神保健研究所 児童・予防精神医学研究部  児童・青年期精神保健研究室 室長)
Singh Archana K(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任研究員:研究当時)
東原 和成(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授/
      JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト 研究総括/
      東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)連携研究者兼任)
岡本 雅子(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任准教授/ JST ERATO東原化学感覚シグナルプロジェクト)

発表のポイント

  • 高密度脳波計測(注1)を用いた嗅覚誘発脳波 (注2) の評価により、自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorders: ASD)者と健常者における、匂いを嗅いでいる際の脳活動の時間的・領域的違いを明らかにしました。
  • ASD者の脳活動は、匂いが呈示されてから542ミリ秒以降において健常者と違いが生じ、その違いは楔部や後帯状皮質などの領域の活動に由来することが推定されました(注3)。
  • ASD者の嗅覚処理の時間変化を詳細に検証した初めての研究です。現在までアンケートを用いた研究などで、ASD者の嗅覚特性は健常者と異なることが報告されておりましたが、本研究によって脳波検査においても異なることが明らかになったことで、今後ASD者の病態についての理解が深まり、より適切な支援の足掛かりとなることが期待されます。

発表概要

 ASDは神経発達障害のひとつで、対人関係、コミュニケーション、興味の範囲の3つの場面に障害を持つほか、匂い、音、光など感覚刺激に対する反応にも特徴があることが知られています。しかし嗅覚については、脳における情報処理のどのような段階に特徴を持つのか、まだ明らかにされていません。そこで私たちは、脳活動の時間変化を詳細に捉えられる脳波を用いてASD者と健常者の嗅覚誘発脳波を比較しました。14名のASD者と19名の健常者の匂いに対する嗅覚誘発脳波を比較したところ、匂い呈示後542ミリ秒以降の、時間的に比較的後期の処理において違いが認められました。またその違いは、楔部や後帯状皮質などの、嗅覚以外の感覚刺激の処理にも関与する脳領域の活動の違いに由来することが推定されました。これらの結果から、ASD者の嗅覚処理では、脳における高次の認知処理に違いがある可能性が示唆されました。現在まで、当事者やその保護者に、感覚刺激に対する日頃の反応について尋ねたアンケートなどから、ASD者の嗅覚特性は健常者と異なることが報告されていましたが、本研究によって脳波検査においても異なることが明らかになったことで、今後ASD者の病態についての理解が深まり、より適切な支援の足掛かりとなることが期待されます。

発表内容


図1 ASD群と健常群の嗅覚誘発脳波の違い 
ASD群と健常群で、嗅覚誘発脳波の電位の大きさの違い、および電位の分布パターンの違いを検証したところ、匂い呈示後542ミリ秒以降において違いが認められました。また、その違いは、楔部や後帯状皮質などの脳領域の活動の違いに由来することが推定されました。

 ASDは、社会性の欠如やコミュニケーション障害、興味の限定などの症状を呈する神経発達障害として知られています。ASD罹患率は59人に1人程度、一人あたりの社会的損失は2.6億円との報告もあり、世界的な社会問題となっています。2013年に改訂された世界的標準な精神疾患の診断基準であるDSM-5にて嗅覚過敏をはじめとした特異的感覚特性が初めてASDの診断基準の一つに取り上げられたこともあり、ASD者の感覚の問題(注4)に注目が集まっています。嗅覚を含めた感覚の問題は、情動・行動や運動・行為の問題に影響し、ASD者にとって実生活の中で抱く困難の本質とも考えられています。感覚処理の中でも感覚特異的な初期の処理と、高次の認知処理のどちらに違いがあるのかを解明することは、感覚特異性を理解し、より適切にASD者の支援を行う上で重要です。
 しかしながら、嗅覚に関してこれまでにASD者の脳活動を検証した研究は1件しかありませんでした。その研究では、機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)により、一次嗅覚野の一部である梨状皮質の活動が、ASD者において健常者より小さいことが示されました。fMRIはどの脳領域の活動に違いがあるかを検証する上で優れた手法ですが、一方で脳活動の時間的な変化を詳細に捉えることは出来ず、ここで示された脳活動の違いが感覚特異的な初期の処理なのか、高次の認知処理の影響を受けているのかは不明でした。そこで私たちは、脳活動の時間変化を詳細に捉えられる脳波を用いてASD者と健常者の嗅覚誘発脳波を比較し、ASD者の感覚処理のどの段階に違いがあるのかを明らかにすることを目指しました。
 本研究では、14名のASD者と19名の健常者の匂いに対する脳活動を、頭表に設置した64個の電極において計測しました。ASD群と健常群の間の脳活動の違いを検証するために、まず各電極、各時点における電位の大きさを比較したところ、後頭部の電極において、匂い呈示後1039ミリ秒から1113ミリ秒でASD者の電位が小さいことが分かりました(図1)。次に、64個の電位の分布パターンを比較したところ、匂い呈示後542ミリ秒から552ミリ秒、724ミリ秒から738ミリ秒において違いが認められました(図1)。これらの結果から、ASD者の嗅覚処理の、時間的に比較的後期の段階に違いがあることが示唆されました。さらにこれらの違いがどの脳領域の活動の違いを反映しているのかを、64個の電位の分布パターンと頭部の構造および各組織の伝導率から推定したところ(注3)、楔部や後帯状皮質などの、匂いの情報処理の中でも高次の認知処理に関与することが知られる領域の活動がASD者の方が大きいことが示唆されました(図1)。
 現在までアンケートを用いた研究などで、ASD者の嗅覚特性は健常者と異なることが報告されていましたが、本研究によって脳波検査においても異なることが明らかになったことで、今後ASD者の病態についての理解が深まり、より適切な支援の足掛かりとなることが期待されます。

発表雑誌

雑誌名
Chemical Senses」(11月6日 on-line publicationの予定)
論文タイトル
Individuals with autism spectrum disorder show altered event-related potentials in the late stages of olfactory processing
著者
Toshiki Okumura, Hirokazu Kumazaki, Archana K. Singh, Kazushige Touhara and Masako Okamoto
DOI番号
10.1093/chemse/bjz070
論文URL
https://academic.oup.com/chemse/advance-article/doi/10.1093/chemse/bjz070/5612144

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
特任准教授 岡本 雅子 (おかもと まさこ)
Tel:03-5841-8043
E-mail:a-okmoto<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
教授 東原 和成 (とうはら かずしげ)
Tel:03-5841-5109
Fax:03-5841-8024
E-mail:ktouhara<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。
研究室URL:http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/

用語解説

  • 注1 高密度脳波計測
    頭表上に64か所~256か所程度の多数の電極を装着して脳波を計測する手法。脳波とは、頭皮上に装着した電極において、脳の神経活動に起因する電位変化の総和を計測する手法で、少数の電極でも計測が可能である。しかし、高密度計測を行うことで、頭表上での電位の分布の空間的なパターンをより詳細に分析したり、脳における信号源を、より精密に推定できるなどの利点がある。このため、脳活動の空間的な情報を解析したい場合に、高密度脳波計測が用いられている。
  • 注2 嗅覚誘発脳波
    嗅覚刺激を受容した時に生じる脳波。一般的には、匂いを200~500ミリ秒程度の短時間呈示し、その際の脳波の変化を計測することで評価する。生じる電位変化は小さいため、何度も繰り返して計測し、それらを平均することで、信号対雑音比を高めた上で評価する。耳朶付近を基準電極とした場合、嗅覚刺激呈示後、300~500ミリ秒にN1と呼ばれる負の電位変化、500~700ミリ秒後および700~1300ミリ秒後に、それぞれP2、P3と呼ばれる正の電位変化を示すことが知られている。
  • 注3 信号源推定
    頭表で観測された脳波が、脳のどの領域の活動によるものかを推定する解析手法。頭表の電極で計測される電位の大きさは、信号源と電極の間の距離だけではなく、脳内で発生した電流と電極との角度、電極に到達するまでの頭蓋骨や脳脊髄液の厚さなど多数の要因の影響を受けるため、脳波の信号源は一義的に計算することができない。そこで、頭部組織の構成やその伝導率などをモデル化することで、信号源を推定する手法が多数開発されてきた。本研究では、とりわけ脳の深部の信号源推定にも適しているとされるsLORETA(standardized Low Resolution Brain Electromagnetic Tomography)法を用いた推定を行った。
  • 注4 ASDの感覚の問題
    例えば、ASD者は皮膚の感覚が過敏であるために抱っこを嫌がったり特定の材質の服を着られなかったり、鼻の感覚が過敏であるためにトイレに入れなかったり、偏食になったりする。このような特異性は、五感全てにおいて報告されているが、ASD者にとって嗅覚は他の感覚と異なり、視覚や聴覚といった他の感覚と比べて注目されてこなかった歴史があった。一方で最近の報告では、ASD者は閾値下及び体臭に対する反応が健常者と異なり、ASD者のコミュニケーションの苦手さが嗅覚特異性に由来する可能性を示唆していること、また今後注目されるべきASDのバイオマーカーとして嗅覚特性を挙げている報告もあり、注目を集めている。

    (引用文献)
  1. Koehler L, Fournel A, Albertowski K, Roessner V, Gerber J, Hummel C, Hummel T, Bensafi M: Impaired Odor Perception in Autism Spectrum Disorder Is Associated with Decreased Activity in Olfactory Cortex. Chemical senses 2018, 43(8):627-634.