発表者
荒川  孝俊(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 助教)
佐藤  優太(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 博士課程2年生)
山田  真行(東京大学大学院情報理工学系研究科コンピュータ科学専攻 博士課程1年生)
高辺  潤平(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 博士課程:研究当時)
森脇  由隆(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 助教)
正村  典也(ハウス食品グループ本社新規事業開発部 課長)
加藤  雅博(ハウス食品グループ本社アグリ素材開発部 グループ長)
青柳  守紘(ハウス食品グループ本社基盤研究部 グループ長)
鴨井  享宏(ハウス食品グループ本社基礎研究部 グループ長)
寺田   透(東京大学大学院情報学環 准教授)
清水 謙多郎(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 教授)
柘植  信昭(ハウス食品グループ本社基礎研究部 高度研究参事)
今井  真介(ハウス食品グループ本社基礎研究部 高度研究参事)
伏信  進矢(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 教授)

発表のポイント

  • タマネギが催涙性分子をつくる酵素反応のしくみを、酵素LFSの立体構造解析とLFS内部で起きる化学反応の理論計算を組みあわせて解き明かしました。
  • 原材料化合物(スルフェン酸)が催涙因子PTSOに変換される際のLFSによる立体特異的反応が、原材料の重合反応に比べて極めて短い時間で起こる論拠が世界ではじめて示されました。
  • 硫黄化合物の反応性に新たな知見を与えるとともに、食に基づく健康・生活の質向上に関わる製品開発や分子設計に役立ちます。

発表概要

 生のタマネギを刻むと涙をもよおさせる物質が発生します。この揮発性物質(催涙因子;PTSO)はタマネギが貯め込む硫黄化合物から2つの酵素の働きで生産されることがわかっていましたが、そのしくみは長らく謎でした。東京大学大学院農学生命科学研究科の荒川孝俊助教、伏信進矢教授らのグループは、ハウス食品グループ本社ならびに東京大学同研究科の森脇由隆助教、寺田透准教授、清水謙多郎教授らのグループとの共同研究において、この2番目の酵素(催涙因子合成酵素;LFS)が原材料化合物に働きPTSOに変換するしくみを解明しました。研究ではタンパク質X線結晶解析(注1)でLFS分子の立体構造を観察し、さらにスーパーコンピュータを用いて分子シミュレーション(注2)をおこなって、実験事実と照合しました。その結果、原材料由来の水素イオンが動くことをきっかけに付近の電子が移動してPTSOができるという、非常に短い瞬間に起きる多くのできごとを記述することに成功しました。このしくみとともに、取扱いが実質不可能であった原材料化合物の物性の一端も明らかになりました。一連の発見はタマネギなどの食材加工における風味や成分の管理および品質の向上につながり、高活性硫黄化合物を使った有用分子創出にも寄与する重要な成果です。

発表内容


図1 タマネギの酵素と生理活性化合物


図2 左:LFSの結晶構造 右:LFSの分子シミュレーション(抜粋)

 根をはり一ヶ所に定着する植物は外敵の脅威に常にさらされています。その対策として生理活性のある化合物の前駆体を貯め込み、外界への働きかけに用いる種が少なくありません。たとえばネギ属植物(ネギ、ニラ、ニンニク、タマネギ、ラッキョウ等)はフラボノイド配糖体やシステインスルホキシド(CSO)を外敵への警告・防御あるいはストレス回避のために貯蔵します。CSOは組織障害によって液胞にある酵素(アリイナーゼ)と混じり合うと分解され、さまざまな硫黄を含む化合物(含硫化合物)に変わります(図1)。生タマネギを刻んで我々に涙をもよおさせる揮発性物質も含硫化合物の一種ですが、この催涙性分子(プロパンチアール–S–オキシド;PTSO)はアリイナーゼとは別の第二の酵素(催涙因子合成酵素;LFS)が働かないと決して作られません。アリイナーゼの触媒機構はすでに解明されましたが、LFSに関しては、今世紀初頭に発見されてからも酵素活性の明らかな原因が見出されないまま謎に包まれていました。特に、LFSが介する反応ではPTSOのsyn–型異性体を選択的に生じます。化学の常識に照らすとanti–型異性体がより安定なため、酵素の特別なしくみなしでは生成を説明できません。東京大学大学院農学生命科学研究科の荒川孝俊助教、伏信進矢教授らのグループは、ハウス食品グループ本社ならびに同研究科の森脇由隆助教、寺田透准教授、清水謙多郎教授らのグループとの共同研究をおこない、この謎の解明に取り組みました。
 研究は次のようになされました。第一に、タマネギLFSを組換えDNA技術で大量調製して結晶化し、タンパク質X線結晶解析をおこない立体構造を決定しました(図2左)。構造では分子中央部に空洞が見出されました。また、反応原材料(基質)の類似分子との複合体構造を観察することで基質が「syn–型のようなねじれた配向」でこの空洞に結合しうることを発見しました。さらに実験を進め、PTSO生産性に決定的な役割を果たす空洞側壁の3つのアミノ酸残基を突きとめました。ところが基質プロペンスルフェン酸はほんのまばたきの間に大半が失われるとても不安定な化合物です。PTSOもまたスルフェン酸等と直接反応して失われてゆきます。両者の経時実測は現実的に不可能であり、[LFS+基質]系に対する分子シミュレーションを別途実施しました(図2右)。MD計算では基質が空洞で高い運動性をもちながらも類似分子と同様のねじれた配向を示しました。これを反応初期状態とみなしてQM/MM計算をおこないました。系内の網羅的なエネルギー探索によって反応経路を推定し、さらに分子軌道解析にまで踏み込み各状態の電子分布を解釈しました。以上をまとめて「基質由来の水素イオンを空洞内で外し、その水素イオンを基質の別の部位に戻すという秩序だった機構でLFSはPTSOを生じており、反応開始時に基質がねじれた配向をもっているとエネルギー障壁を低くおさえられる」事実が矛盾なく記述されました。
 PTSOはじめチオアルデヒド(R–C=S)誘導体の単離・合成は容易でありません。PTSO生成を保証するLFSのアミノ酸残基は一般酵素にはみられない独特な組み合わせであり、本成果はこの官能基を合成する触媒設計へ新たなアイデアを与えます。基質スルフェン酸についても特殊酸としての挙動を示すことが本研究で新たに判明しました。スルフェン酸は活性分子種(注3)と称される現技術水準では観測困難な分子ですが、ネギ属植物の食用・調理で身近に発生します。スルフェン酸が重合してできるアリシン様物質は我々人間の循環器系へ良い影響を与えるなどの薬効性も分かりつつあります。本研究は食成分に幅や深みを生む現象の理由を解読し、生活のクオリティならびに食に関する製品品質の向上・成分管理に貢献する貴重な成果ともいえます。加えて本成果は酵素反応機構に分子軌道の概念を適用して解釈を与えた数少ない例です。反応は、MD計算で座標を保存する間隔(10ピコ秒;注4)よりもさらに短い時間領域で完結すると推定されます。反応性の高い基質が別の物質に変換されていくこの間での過程がありありと示され、世界の計算化学研究に対して新鮮な知見が提供されました。
 LFSは2013年イグノーベル賞授賞事由『タマネギを切ったときに涙が出るという反応は実は非常に複雑なプロセスによって生まれていたこと』の裏方分子であり、本研究によってこの複雑なプロセスが皮をむくがごとく露わになりました。また、PTSOはタマネギをかじったときのピリリと感じる成分でもあります。この辛味を感じた瞬間のサラダボウルでは、LFSがファンタジスタさながらにアクロバティックな水素原子のつけかえに駆けまわっています。

発表雑誌

雑誌名
ACS Catalysis
論文タイトル
Dissecting the Stereocontrolled Conversion of Short-Lived Sulfenic Acid by Lachrymatory Factor Synthase
著者
Takatoshi Arakawa*, Yuta Sato*, Masayuki Yamada*, Jumpei Takabe*, Yoshitaka Moriwaki*, Noriya Masamura, Masahiro Kato, Morihiro Aoyagi, Takahiro Kamoi, Tohru Terada, Kentaro Shimizu, Nobuaki Tsuge, Shinsuke Imai, Shinya Fushinobu
DOI番号
10.1021/acscatal.9b03720
論文URL
https://dx.doi.org/10.1021/acscatal.9b03720

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命工学専攻 酵素学研究室
助教 荒川 孝俊(あらかわ たかとし)
Tel:03-5841-5149
Fax:03-5841-5149
E-mail:arakawai<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。

用語解説

  • 注1 タンパク質X線結晶解析(PX)
    タンパク質の結晶を用意し、そのX線回折パターンを集め処理する実験。アミノ酸ポリマーであるタンパク質はそれぞれ異なる立体構造をもちますが、当法により化学結合距離の精度でタンパク質立体構造を決めることができます。
  • 注2 分子シミュレーション
    多数の原子の動きや相関をコンピュータで数値計算して求める手法。分子形状に合う相互作用を推察するドッキングシミュレーション、原子核の時間変動をニュートンの運動方程式にもとづいて求める分子動力学(MD)計算、電子を含めたエネルギーおよび軌道状態をシュレディンガー方程式およびその近似から求める量子力学/分子力学(QM/MM)計算など、さまざまな手法があります。
  • 注3 活性分子種
    生物活動で一時的に生産される制御困難な活性化合物。活性酸素種(ROS)や活性窒素種(RNS)のほか、活性硫黄種(RSS)として硫化水素やペルスルフィド、チイルラジカルなどが見出されています。
  • 注4 ピコ秒
    光(1秒間で地球をおよそ7周半進む)が約0.3ミリメートルだけ進むごく短い時間に相当します。