発表者
喜田  聡(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 教授
/文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究(研究領域提案型))「マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出」領域代表)
長谷川俊介(東京農業大学生命科学部 博士研究員;研究当時)
福島 穂高(東京農業大学生命科学部 助教)
細田 浩司(東京農業大学応用生物科学部 助手;研究当時)
芹田 龍郎(東京農業大学生命科学部 博士研究員;研究当時)
石川 理絵(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 助教)
六川 智博(東京農業大学大学院農学研究科 博士前期課程;研究当時)
川原 玲香(東京農業大学生物資源ゲノム解析センター 博士研究員;研究当時)
張   悦(東京農業大学応用生物科学部 博士研究員;研究当時)
太田 美穂(東京農業大学大学院農学研究科 博士前期課程;研究当時)
岡田辰太郞(東京農業大学大学院農学研究科 博士前期課程;研究当時)
谷水 俊之(東京農業大学生命科学部 助教)
Sheena Josselyn(トロント大学医学部 教授)
Paul Frankland(トロント大学医学部 教授)

発表のポイント

  • 脳内(海馬)の生物時計が壊れた遺伝子操作マウスでは、記憶を思い出せなくなったことから、体内時計が記憶の想起(思い出し)に貢献していることが初めて明らかとなった。
  • 体内時計が神経伝達物質ドーパミンを活性化することで記憶を想起させている分子メカニズムも初めて明らかとなった。
  • 記憶を思い出せなくなった遺伝子操作マウスでもドーパミンを活性化することでその障害が改善されたことから、加齢後や認知症における記憶を思い出せない症状改善方法の開発が期待される。

発表概要

 年を取ると、思い出(想起)したくとも、うまく思い出せないことは人類共通の悩みです。また、認知症などの記憶障害の原因が思い出せない障害である可能性も大きいですが、この観点からの研究は進んでいません。一方、齧歯類を使った記憶研究でも、記憶するメカニズムの解明は進んでいますが、思い出すメカニズムの解明は進展していません。以上の背景のもとで、東京大学大学院農学生命科学研究科の喜田聡教授らは、記憶に対する体内時計(体内の生物時計)(注1)の役割を明らかにするため、遺伝子操作により記憶中枢である海馬の生物時計が壊れたマウスの解析を進めました。その結果、遺伝子操作マウスは記憶を思い出す能力が低下していること、特に、夕方の時間帯に思い出せなくなることを明らかにしました。さらに、体内時計は神経伝達物質ドーパミン(注2)の情報伝達を活性化させて、グルタミン酸受容体(注3)のリン酸化を引き起こすことで記憶を想起させるメカニズムを発見しました。この結果に一致して、ドーパミン情報伝達を活性化させると、遺伝子操作マウスが記憶を思い出せるようになること(想起障害の改善)も示されました。本研究から体内時計が記憶想起に必要であること、さらに、記憶想起の分子機構が明らかにされました。この研究を応用することで、今までに顧みられていなかった加齢に伴う想起障害の改善、また、想起能力の向上による認知症の改善の道が開かれることが期待されます。

発表内容



 加齢と共に、思い出したくとも思い出せなせなくなることは我々の共通の悩みです。認知症の記憶障害は記憶できないことが原因であると認識されがちですが、実は記憶想起の障害が原因である可能性も否定できません。一方、記憶研究では世界的に記憶するメカニズム、すなわち、記憶形成のメカニズムの解明が進められてきましたが、記憶想起の機構解明はほとんど手つかずの状態です。例えば、記憶障害を示す遺伝子操作マウスは数多く存在しますが、ほとんどの場合、記憶できないことが原因と結論されてしまいます。このことは、記憶障害の原因が想起の障害であると結論するには、ある条件にすると記憶を思い出せることを証明することが必要なのですが、このような条件を見つけ出すハードルが高いためです。
 動物の体内には生物時計(体内時計)が存在し、24時間周期の生活リズムを産生しています。ほ乳類では体内時計の中枢は脳内の視交叉上核(注4)です。興味深いことに、生物時計は体内のそれぞれの末梢組織にも存在し、臓器特有の機能と関連することが知られています。
 以上の背景のもと、喜田聡教授らのグループでは、人は夕方の時間帯に記憶障害を示すことから、脳内の生物時計が記憶と関係するとの仮説を立てて、記憶に対する生物時計の役割の解明に取り組んできました。この解明のために、記憶の中枢である海馬において生物時計を制御する時計遺伝子BMAL1(注5)の働きを阻害した、すなわち、海馬の生物時計の働きを阻害した遺伝子操作マウスを独自に作製しました。この遺伝子操作マウスでは、視交叉上核の生物時計は正常ですが、海馬の生物時計が損なわれています。この遺伝子操作マウスを用いてさまざまな記憶テストを行った結果、驚くべきことに、この遺伝子操作マウスは記憶できるのですが、記憶想起に障害を示す(記憶を思い出せない)ことが明らかとなりました。具体的には、どの時間帯でも記憶できるのですが、特に夕方の時間帯(明期開始後10時間)において記憶を思い出せなくなっていることが判明しました(図1)。さらに、遺伝子発現の網羅的な解析から、この遺伝子操作マウスでは、神経伝達物質ドーパミンによる情報伝達が損なわれており、その結果、cAMP情報伝達経路の活性が低下し、この情報伝達経路によるAMPA型グルタミン酸受容体(AMPA型受容体の845番目のセリン)のリン酸化が低下していることが明らかになりました。このドーパミン情報伝達によるリン酸化の異常が記憶想起障害の原因となっていることは、ドーパミン及びcAMP情報伝達経路(注6)を活性化する薬剤を遺伝子操作マウスに与えると、記憶想起障害が改善されること、また、グルタミン酸のリン酸化を阻害した遺伝子操作マウスも、同様に記憶想起の障害を示すことからも支持されました。以上の研究結果から、海馬の生物時計は、ドーパミンからcAMP、そして、グルタミン酸受容体のリン酸化に至る情報伝達を活性化することで、記憶想起を正に制御していると結論しました(図2)。現在、記憶想起を制御する遺伝子群は同定されておらず、今回の研究は記憶想起の分子機構の解明を大きく進展させました。また、ドーパミンが記憶想起を制御することも本研究において初めて明らかとなりました。
 以上の成果は、ドーパミンからcAMPに至る情報伝達経路を活性化することで、記憶想起障害が改善される可能性を示しました。この成果を応用することで、加齢に伴う想起障害の改善、また、記憶想起能力を向上させることで認知症の症状が緩和されることが期待できます。これは、我々の認知パフォーマンスを向上させる標的として、記憶力向上に加え、記憶想起能力の向上が加わったと言えます。
 本研究は東京大学大学院農学生命科学研究科、東京農業大学、トロント大学の共同研究として行われました。また、本研究は科研費基盤研究A、文科省新学術領域「マイクロ精神病態」、「マルチスケール脳」、「個性創発脳」、「適応回路シフト」、「分子行動学」、科研費挑戦的研究などの支援により行われました。
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発表雑誌

雑誌名
Nature Communications
論文タイトル
Hippocampal clock regulates memory retrieval via Dopamine and PKA-induced GluA1 phosphorylation
著者
Shunsuke Hasegawa1, Hotaka Fukushima1, Hiroshi Hosoda1, Tatsurou Serita1, Rie Ishikawa1,4, Tomohiro Rokukawa1, Ryouka Kawahara-Miki2, Yue Zhang1, Miho Ohta1, Shintaro Okada1, Toshiyuki Tanimizu1, Sheena A Josselyn3, Paul W Frankland3, Satoshi Kida1,4*(1東京農業大学生命科学部、2 東京農業大学生物資源ゲノム解析センター、3トロント大学、4東京大学大学院農学生命科学研究科)
DOI番号
10.1038/s41467-019-13554-y
論文URL
https://www.nature.com/articles/s41467-019-13554-y

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 栄養化学研究室
教授 喜田 聡(きだ さとし)
Tel:03-5841-5118
E-mail:akida<アット>g.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。

用語解説

  • 注1 体内時計
    動物は体内時計を有しており、この体内時計の働きにより24時間周期の概日リズムが産み出され、24時間周期の生活を快適に過ごすことができている。我々が海外において時差ぼけを感じるのは、体内時計が日本時間であるため、現地時間にすぐに同調できないためである。体内時計を構成する時計遺伝子群も同定されている。
  • 注2 ドーパミン
    意欲、快情動、運動、学習などを制御する神経伝達物質。今回の論文では、ドーパミンによるドーパミン受容体D1型とD5型の活性化によるcAMP情報伝達経路の活性化が記憶想起に必要であることを明らかにした。
  • 注3 グルタミン酸受容体
    神経伝達物質の一つであるグルタミン酸が作用する受容体であり、学習と記憶に必要である。グルタミン酸受容体にはAMPA型とNMDA型と2種類が存在しており、通常のグルタミン酸による神経伝達はAMPA型受容体によって行われ、長期的な記憶が形成されるような(強い)神経伝達ではNMDA型が働く。AMPA型受容体はcAMPやCa2+をセカンドメッセンジャーとする細胞内情報伝達の活性化によってリン酸化されることが知られており、今回の論文では、cAMP情報伝達によるリン酸化が記憶の想起に必要であることを初めて明らかにした。
  • 注4 視交叉上核
    体内時計の中枢である。興味深いことに、時計遺伝子は末梢に至るまでの個々の細胞で働いていて、一つ一つの細胞に生物時計が存在している。視交叉上核は体内時計の中枢として末梢の生物時計を同調させて、個体の概日リズムを統合する働きを担っている。代謝を代表とする個々の臓器・組織の働きは体内時計と関係していることが示唆されてきた。今回の論文では海馬における生物時計の働きを阻害した影響を解析した。
  • 注5 時計遺伝子BMAL1
    体内時計を構成する遺伝子が時計遺伝子であり、時計遺伝子群の遺伝子発現制御(転写制御)が概日リズム産生の起点となっている。
  • 注6 cAMP情報伝達経路
    cAMPは主要なセカンドメッセンジャーの一つであり、細胞内情報伝達を活性化させる。cAMPはアデニル酸シクラーゼによって産生され、リン酸化酵素であるAキナーゼを活性化する。