発表者
吉本  翔 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 博士課程4年生)
加藤 大貴 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 特定研究員)
中川 貴之 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 准教授)
西村 亮平 (東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 教授)

発表のポイント

  • 犬肺腺癌の組織では、正常な犬肺組織に比べて、ヒト上皮成長因子様受容体2 (HER2)と呼ばれるタンパクが高発現していることを発見しました。
  • 犬の肺癌の約7割の症例で治療標的となり得る発現レベルでHER2タンパクが高発現していました。
  • 本発見は、犬肺癌における新たな治療法の開発や病態解明につながる重要な発見であると共に、人の肺癌との類似性を提唱し、犬の肺癌と人の肺癌の密接な関連性を示唆するものです。

発表概要

 東京大学 大学院農学生命科学研究科 獣医外科学研究室の西村亮平教授らの研究チームは、犬肺癌の治療標的を探索し、その候補分子としてヒト上皮成長因子様受容体2 (HER2)タンパクを同定しました。人と生活環境を共有する愛玩犬たちは、人と同様の原因によって、さまざまな癌が自然発生します。近年、人において問題となっている非喫煙肺癌は、今回の研究対象となった犬の肺癌と類似した疾患と考えられています。これまでに、人非喫煙肺癌においても、HER2タンパクの高発現が報告されており、治療標的としての検証が進められてきましたが、未だ確立していません。獣医学の発展により、犬の肺癌の早期発見症例では手術により完治することができるようになってきましたが、進行例では依然として有効な治療法がなく、人の肺癌と同様に新規治療法の開発が望まれている癌の一つです。今回、西村亮平教授らの発見によって、大部分の犬の肺癌においてHER2タンパクが高発現しており、人の肺癌領域で研究が進められてきた抗HER2療法が有効である可能性が示されました。

発表内容


図1 犬肺癌組織では正常な肺組織に比べて、HER2遺伝子が高発現していた
 定量的PCR解析により、犬肺癌組織(6検体)と正常肺組織(4検体)のHER2遺伝子発現量を解析した。肺癌組織で正常肺組織に比べ、HER2遺伝子の高発現を認めた。


図2 犬肺癌組織では犬正常肺組織
に比べ、HER2蛋白質が高発現していた免疫染色により、犬肺癌組織のHER2タンパク発現を解析した。周囲の正常細胞に縁取られた癌細胞がHER2タンパク発現を示す茶色に強く染色された。


表1 犬肺癌組織の69%の症例でHER2タンパクの強い発現を認めた
犬肺癌組織16検体のHER2タンパク発現を免疫染色および人乳癌で用いられているHER2発現スコアにより解析したところ、全ての症例でHER2タンパク発現を認め、うち69%の症例でHER2タンパクの強い発現を認めた。

【研究の背景】
 人における肺癌は、国内の悪性新生物による死亡原因の第1位であり、日本人の約12万人が毎年新たに発症し、約7万人の死亡原因となると推定されています。喫煙率の低下に伴い、喫煙者肺癌の患者数は減少傾向にあるものの、近年、非喫煙者肺癌の割合の増加が問題となっています。その原因の一つとして、PM2.5などの大気汚染が注目されています。我々、人と生活環境を共有している愛玩犬は喫煙はしないものの、同じ大気環境で生活していることで、人における非喫煙肺癌に類似した疾患と考えられる肺癌が自然発生することが知られています。犬の肺癌では、手術の有効性が高いことから早期癌では人に比べ予後が良い例が多いものの、進行癌症例も少なからず存在します。これらの症例では適応となる抗癌剤の有効性が極めて乏しく、死亡率も高いことから、新たな治療法の開発が望まれています。

【研究の内容と意義】
 飼い主さんの了承を得た上で、手術で採材した犬肺癌の検体を用いて、複数の候補分子の発現を正常の肺組織と比較しました。その結果、ヒト上皮成長因子様受容体2 (HER2)と呼ばれるタンパクの遺伝子が大部分の犬肺癌において、2倍近く高発現していることを発見しました【図1】。
 HER2は人の乳癌をはじめとしたいくつかの癌種で発現が認められ、癌の増殖に関わっていることがわかっています。近年は、人の肺癌においても、HER2を標的とした治療薬の開発が精力的に進められており、有望な治療標的の一つとなっています。そこで、16頭のさまざまな犬種の犬肺癌の組織におけるHER2タンパクの発現の強さと分布を解析したところ、多くの犬種で広範な癌細胞にHER2タンパクの強い発現を認めました。およそ70%の症例では医学領域の診断で用いられているHER2発現スコア2以上の強い発現を認め、抗HER2薬の適用が可能なレベルであると考えられました【図2、表1】。
HER2の高発現は、犬や人の複数の癌腫で報告されており、これまでに獣医学・医学領域で多くの抗HER2薬の開発が試みられてきました。さらに、犬と人のHER2タンパクは90%以上の類似性があるため、一部の薬剤は共通して使用できることもわかっており、さまざまな抗HER2薬の選択が可能です。従って、今後は犬肺癌細胞株や肺癌症例犬での検証により、どのような薬剤が有効かを明らかにすることで、新たな治療法の確立につながることが期待されます。
今回、西村教授らは、分子生物学的手法を用いて、世界で初めて犬肺癌の約7割の症例においてHER2蛋白質が過剰発現していることを突き止めました。時期を同じくして、アメリカのオハイオ州立大学のグループは犬肺癌のゲノムを解析するといった、西村教授らとは逆の視点からのアプローチにより、犬の肺癌の約3割の症例で、HER2タンパクの発現量は変化せずにHER2遺伝子の変異により、HER2のシグナルが活性化していること報告しています(Clin. Cancer Res; 25(19) pp5866-5877, Oct. 2019)。HER2タンパクの過剰発現とHER2遺伝子の変異は、相互に排他的な異常であることが知られており、これら2つの報告を統合すると、犬の肺癌において、高頻度にHER2の異常が存在していることが示唆されます。興味深いことに、人の非喫煙肺癌においてHER2タンパクが過剰発現している患者さんの割合は20-30%、HER2遺伝子変異を持つ患者さんの割合は3-5%と報告されていることから、犬肺癌のほとんどの症例が人の非喫煙肺癌のHER2異常を持った一部の集団に類似していることがわかります。このような「犬と人の肺癌の差がなぜ生まれるのか?」といった腫瘍生物学的な新たな課題も浮き彫りとなり、今後の研究が気になります。
 
【結論と展望】
 本研究では犬肺癌の新たな治療標的の候補として、HER2を初めて同定しました。HER2は種々のがんの増殖に関与していることが報告されており、すでにHER2を標的とした、いくつかの薬剤の治療効果が認められています。本研究成果はHER2を標的とした犬肺癌の新しい治療法開発や病態解明につながると共に、人肺癌と犬肺癌の類似点・相違点を明らかにし、比較腫瘍生物学の観点からも価値ある発見です。 

発表雑誌

雑誌名
The Journal of Veterinary Medical Science(オンライン版の場合:4月3日)
論文タイトル
Overexpression of human epidermal growth factor receptor 2 in canine primary lung cancer
著者
Sho Yoshimoto, Daiki Kato*, Satoshi Kamoto, Kie Yamamoto, Masaya Tsuboi, Masahiro Shinada, Namiko Ikeda, Yuiko Tanaka, Ryohei Yoshitake, Shotaro Eto, Kohei Saeki, James Chambers, Yuko Hashimoto, Kazuyuki Uchida, Ryohei Nishimura, Takayuki Nakagawa
DOI番号
10.1292/jvms.20-0026
論文URL
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvms/advpub/0/advpub_20-0026/_article/

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 獣医外科学研究室
教授 西村 亮平(にしむら りょうへい)
Tel:070-6442-9511
E-mail:arn<アット>mail.ecc.u-tokyo.ac.jp <アット>を@に変えてください。