発表者
福島 穂高(東京農業大学 生命科学部 助教)
張   悦(東京農業大学 応用生命科学部 博士研究員:当時)
喜田  聡(東京大学 大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授)

発表のポイント

  • トラウマ体験の記憶(恐怖記憶)から恐怖感を消し去る分子スイッチを発見した。
  • この分子スイッチの正体は細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase; ERK)(注1)であり、恐怖記憶を思い出したときに海馬、扁桃体、前頭前野の神経細胞内で働く。
  • この分子スイッチの働きを強化することで、トラウマ記憶を原因とする心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が改善されることが期待される。

発表概要

 恐怖記憶は心的外傷後ストレス障害(PTSD)(注2)の原因となるトラウマ記憶の代表例です。この恐怖記憶の機構解明はPTSDの治療方法開発に貢献できると考えられています。恐怖記憶を思い出した後には、恐怖を維持または増強する再固定化反応(注3)、あるいは、恐怖を減弱する消去反応(注4)が誘導されます。しかし、恐怖記憶が思い出された後に、恐怖記憶の恐怖感を残したままにするのか、あるいは、恐怖感を消し去るかを決定する脳内メカニズムは不明でした。我々は、マウスの恐怖記憶課題を用いて、この決定機構の解析を行ってきました。本研究における解析から、細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase; ERK)の活性化により、再固定化の進行がリセットされ、その後の消去学習が可能となることが明らかとなりました。すなわち、ERKは再固定化から消去への分子スイッチの働きを担うことが明らかとなりました。この研究結果は、2021年2月10日に「The Journal of Neuroscience」に掲載されました。

発表内容

 トラウマ体験の記憶、すなわち、トラウマ記憶は生死に関わるような体験の記憶であり、強いトラウマ記憶はPTSDの原因となる。恐怖記憶は動物からヒトに至るまで観察され、本来は危機回避のための本能行動である。この恐怖記憶は、トラウマ記憶の代表例であり、恐怖記憶のメカニズムには、ヒトと動物の間で相同性が観察される。そこで、恐怖記憶のメカニズムの解明はPTSDの理解、また、治療方法の開発に貢献できると考えられている。
 恐怖記憶を思い出した後には、再固定化反応を経て恐怖記憶が維持または増強される。一方、恐怖記憶は一種の条件づけ記憶であるため、記憶を思い出すだけでは(恐怖を再び実体験するわけでないので)、恐怖感は薄れていく(例;車にひかれそうになった場所に行って、この体験を思い出すと恐くなるが、再び恐い思いをしない限りは、恐怖感は弱まっていく)。心理学的には、この反応は記憶消去と呼ばれている。このように、恐怖記憶を思い出した後には、恐怖感を正負に制御する相反するプロセス(再固定化と消去)が誘導される。我々のグループでは、恐怖記憶の再固定化と消去のメカニズムの解明を進め、恐怖記憶を想起する時間が短ければ再固定化、長くなると消去が誘導され、再固定化と消去は独立したプロセスではないことを明らかにしてきた。さらに、再固定化と消去を制御する脳領域が異なること、また、再固定化と消去の分子機構の共通性と特異性を示してきた。しかし、恐怖記憶が思い出された後に恐怖記憶の恐怖感を残したままにするのか、あるいは、記憶から恐怖感を消し去るかを決定する脳内メカニズムは不明であった。以上の背景から、本研究では、恐怖記憶想起後に再固定化から消去に切り替わるメカニズムの解明を試みた。実験には、受動的回避反応課題を用いた。この課題では、明箱と暗箱との二つに分かれた箱を用い、マウスは最初明箱に入れられ、明箱から暗箱に移動すると電気ショックを受けて、暗箱に対する恐怖記憶が形成される(図参照)。この後、マウスが再び明箱に入れられると、恐怖記憶が想起されるものの、マウスが暗箱に再び入っても電気ショックが与えられないことを学習しない限り、(黒箱は安全だと学習する)消去は誘導され得ない。そこで、この課題を用いれば、明箱では再固定化が誘導され、暗箱では消去が誘導されるため、再固定化と消去を区別して解析できる。興味深いことに、本研究における解析から、明箱にだけ滞在させて恐怖記憶を思い出させると再固定化が誘導され、一方、暗箱に移動してから10分間暗箱に滞在させると消去が誘導されるのに対して、暗箱に移動してから1分間だけ暗箱に滞在させると再固定化も消去も起こらないことが示された。さらに、明箱にだけ滞在させると海馬、扁桃体、前頭前野で神経活動依存的遺伝子発現が観察されるものの、暗箱で1分間滞在させるだけで、これらの遺伝子発現がキャンセルされた。しかし、暗箱に10分間滞在させると再び遺伝子発現が起こり始めることが明らかになった。以上より、再固定化から消去に移行する過程で、再固定化をキャンセルし、消去を開始させる「切り替え反応」の存在が示唆された。
そこで、明箱から移動した後に暗箱で1分間滞在した後に起こる分子レベルの変化を解析したところ、細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase; ERK)の活性化(リン酸化)が引き起こされていることを突き止めた。さらに重要な点として、海馬、扁桃体、前頭前野におけるERKの活性化をERK阻害剤の微量注入により抑制したところ、再固定化が再び誘導されるようになることが観察された。すなわち、ERKの活性化を通じて再固定がリセットされることが示唆された。従って、このERKが分子スイッチとして働き、再固定化をリセットし、消去を開始させることが強く示唆された。 以上の解析結果は、脳において、再固定化から消去への切り替えを動的に調節するメカニズムが存在することを示唆している。簡単に言えば、恐怖記憶を思い出し、まだ恐怖を感じる必要があれば再固定化を誘導して恐怖を保持させるが、恐怖を感じる必要が無くなってきた場合には再固定化を停止して、消去を開始させて(恐怖を感じる必要がないことを)安全学習させていると考えられる。簡単に言えば、この分子スイッチの働きで、恐怖体験を思い出すだけでは震え上がることがなくなると言えよう。
 ERKの働きにより消去が起こりやすくなると考えられるため、この分子スイッチを調節することでトラウマ記憶の消去を促進する方法を開発すれば、PTSDの治療方法開発に貢献できると考えられる。

発表雑誌

雑誌名
The Journal of Neuroscience
論文タイトル
Active transition of fear memory phase from reconsolidation to extinction through ERK-mediated prevention of reconsolidation.
著者
Fukushima, H., Zhang, Y., Kida, S.
DOI番号
10.1523/JNEUROSCI.1854-20.2020
論文URL
https://www.jneurosci.org/content/41/6/1288.abstract?etoc

問い合わせ先

東京大学 大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻
教授 喜田 聡(きだ さとし)
Tel:03-5841-5118
E-mail:akida<アット>g.ecc.u-tokyo.ac.jp  <アット>を@に変えてください。

用語解説

  • 注1 細胞外シグナル制御キナーゼ(extracellular signal-regulated kinase; ERK)
     細胞外からのシグナルを媒介し、細胞の増殖を促進する細胞内のリン酸化酵素として同定されていたが、後の研究から、細胞内の情報伝達経路において様々な細胞機能を制御することが明らかとなっている。
  • 注2 PTSD
     心的外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder: PTSD)は、生命の危険を感じるような出来事を体験・目撃する、重症を負う、犯罪被害に遭う、などの強い恐怖を伴う体験がこころの傷(=トラウマ)となり、時間がたっても強いストレスや恐怖を感じる精神疾患。
  • 注3 再固定化
     記憶を貯蔵するための反応(プロセス)が「固定化」であり、遺伝子発現を必要とする。これに対して、貯蔵されていた記憶が思い出されて、再貯蔵するために必要とされる反応が「再固定化」である。再固定化も遺伝子発現を必要としており、その分子メカニズムは固定化と類似している。2000年に、記憶再固定化の存在が報告された。
  • 注4 消去
     1927年に心理学者のパブロフにより、指摘された。パブロフの犬では、鈴の音(条件刺激)と食事(非条件刺激)が条件づけされ、犬は鈴の音を聞くとよだれを垂らすようになる。しかし、鈴を鳴らしても、食事が出てこない状態が続けば、鈴の音(条件刺激)に反応しなくなる。このように、条件づけに反応する必要がないことを再学習することが「消去」である。しかし、再度、鈴の音を聞かせて食事を与えれば、すぐに条件付けが復活するので、条件づけ記憶が失われるわけではない。