発表者
津田 吉晃(筑波大学生命環境系 准教授)
湯本 景将(筑波大学生命環境系大学院理工情報生命学術院生命地球科学研究群生物学学位プログラム(博士後期1年))
齊藤 陽子(東京大学大学院農学生命科学研究科生圏システム学専攻 准教授)
兼子 伸吾(福島大学共生システム理工学類 准教授)
神戸 崇(北海道大学大学院農学研究院 専門研究員)

 生きた生物を捕獲せずに非侵襲的に遺伝情報を取得することの重要性が認識されるようになり、昆虫では、抜け殻から抽出したDNAが遺伝解析に使用できることが分かってきました。近年、海外ではセミの抜け殻を利用した遺伝解析研究が始まり、母性遺伝するミトコンドリアDNAを対象とした手法がすでに開発されています。しかしながら、セミの抜け殻から得られるDNAは、質および収量ともに十分ではなく、また、採取前にセミの抜け殻に入り込んだ他生物由来のDNAが混入するなどの問題があるため、より多くの遺伝情報を取得できる、両性遺伝する核DNAの遺伝データの取得方法は確立されていませんでした。
 本研究グループは、エゾハルゼミを対象に、その抜け殻からDNA抽出を行い、マイクロサテライトマーカーを用いて、核DNAを対象とした遺伝子型決定の手法開発に取り組みました。DNA抽出の際に抜け殻をよく粉砕し、PCR条件を精査することで、羽化後おおよそ1週間以内の抜け殻であれば、比較的高い確率で、成虫から抽出したDNAと同等レベルの良好なPCR増幅および遺伝子型の決定ができることが明らかになりました。これにより、セミの抜け殻から抽出した核DNAを遺伝解析に利用する方法を、世界で初めて開発することに成功しました。
 この手法は、セミだけでなく他の昆虫類にも応用可能であり、希少種や絶滅危惧種だけでなく、生体の採取が困難な生物種の遺伝情報を解析する場合などにも役立つと考えられます。

研究の背景

 生物の遺伝情報取得は、分子生物学的技術やゲノム解析などの発展により、集団遺伝学、進化生物学、生態系管理学、保全生態学、さらには気候変動影響評価など、多くの関連研究分野において重要な研究手法として普及しています。一方、希少動物などの場合、対象種、地域集団あるいはその生態系への影響の観点から、生体の捕獲を伴わない非侵襲的な遺伝情報取得の重要性が議論されるようになりました。ここで、昆虫は幼虫から成虫へと羽化するときに抜け殻を残すため、その抜け殻からDNAを抽出できれば、非侵襲的な遺伝情報取得が可能です。また、抜け殻のDNAでその個体の遺伝情報取得ができれば、生体の捕獲が難しい種の遺伝解析にも大いに役立ちます。実際に、ハチ、トンボ、ゲンゴロウなど様々な種において、抜け殻がDNA抽出用の優れた資源として遺伝解析に利用できることが知られています。
 日本人に馴染み深い昆虫であるセミも、幼虫が成虫に羽化する際に、樹木の葉や幹などに抜け殻を残します。セミの抜け殻は、夏休みの遊びや自由研究の定番となっているように、採取が容易であり、抜け殻からセミの種類や性別を判別することが可能なため、これまで主に、生態学的研究で多く利用されてきました。近年、海外では、セミの抜け殻の遺伝解析研究も始まり、母性遺伝するミトコンドリアDNA(注1)を対象とした手法が開発されていますが、ミトコンドリアDNAの遺伝的変異情報だけでは、詳細な遺伝的多様性評価など集団遺伝学的解析に限界があるため、変異性が高く両性遺伝する核DNA(注2)の情報取得が期待されていました。しかし、セミの抜け殻から得られるDNAは、質および収量ともに低く、また採取前にセミの抜け殻に入り込んだ他生物由来の混入DNAの影響もあり、これまで核DNAの遺伝データの取得方法は確立されていませんでした。
 そこで本研究グループは、エゾハルゼミの抜け殻を対象に、種特異的にPCR(注3)増幅できるマイクロサテライトマーカー(注4)を用いて、核DNAを対象とした遺伝子型決定の手法開発に取り組みました。

発表内容と成果

図1 エゾハルゼミ成虫(左)と抜け殻(右)


図2 セミ抜け殻の遺伝解析への利用イメージ

 エゾハルゼミ(Yezoterpnosia nigricosta)は、日本・中国・極東ロシアの冷温帯林に広く生息するセミ科昆虫の一種です。アブラゼミやクマゼミなどの他のセミ類と異なり、5月から7月と早い時期に出現し、「ミョーケン、ミョーケン、ケケケケケ―」と独特の鳴声をするので、山開きから初夏にかけての登山者にとって非常に馴染み深い昆虫の一つです。また京都府、奈良県など、地域によっては準絶滅危惧種に指定されている希少な種です。本研究ではこのエゾハルゼミを対象に、筑波大学山岳科学センター菅平高原実験所、八ヶ岳演習林の他、北海道および九州の全国4地点から抜け殻を採取し、DNAを抽出しました。ここでより効率よいDNA抽出のために抜け殻をよく粉砕しました。得られたDNAについて、本研究グループでエゾハルゼミ用に開発した核DNAマイクロサテライトマーカー(Kanbe et al. 2020)に対して、増幅能力などが異なる4種類のPCRキットを使用し、5つの異なるPCR増幅条件を用いて遺伝子型決定を試みました。また、抜け殻の鮮度(幼虫が羽化してからどのくらい期間がたっているか)と遺伝データ取得の関係性について評価しました。その結果、長断片のPCR増幅に使用することの多いPCRキットを使用した場合に、最も安定的かつ明瞭で、成虫から抽出したDNAと同等レベルの、良好なPCR増幅を得られることが分かりました。さらに、菅平高原実験所における毎週のセミ抜け殻採取調査から、羽化後おおよそ1週間以内の抜け殻であれば、比較的高い確率で、PCR増幅および遺伝子型の決定ができることが明らかになりました。これにより、セミの抜け殻から抽出した核DNAを遺伝解析に利用する方法を、世界で初めて開発することに成功しました。

今後の展開

 今回開発した手法は、セミだけでなく他の昆虫類にも応用可能であり、特に、希少種や絶滅危惧種だけでなく、木の高いところにいて、生体の採取が困難な物種の遺伝情報を解析する場合などに役立つと考えられます。またセミ抜け殻DNAのゲノムレベルでの研究にも着手し、より効率的な遺伝データ取得手法の開発を進める予定です。
 本研究チームでは、この手法も用いて、エゾハルゼミの日本全国の集団遺伝構造およびその歴史、また本種が生育する冷温帯林の分布変遷史との関係などを評価しており、今後、森林性昆虫の視点からの気候変動影響評価への展開が期待されます。

 本研究は、(一財)長野県科学振興会(湯本景将)、科研費・若手研究(B)(15K18603、神戸崇)のサポートにより実施しました。
 研究の詳細についてはこちらのページを参照ください。

発表雑誌

雑誌名
Frontiers in Insect Science
論文タイトル
Efficient PCR amplification protocol of nuclear microsatellites for exuviae-derived DNA of cicada, Yezoterpnosia nigricosta
(エゾハルゼミの抜け殻から抽出したDNAのための核マイクロサテライトの効果的なPCR増幅法)
著者
Keisuke Yumoto(筑波大学大学院理工情報生命学術院生命地球科学研究群生物学学位プログラム), Takashi Kanbe(北海道大学大学院農学研究院), Yoko Saito(東京大学大学院農学生命科学研究科), Shingo Kaneko(福島大学共生システム理工学類), Yoshiaki Tsuda(筑波大学生命環境系・山岳科学センター菅平高原実験所)
DOI番号
10.3389/finsc.2021.696886
論文URL
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/finsc.2021.696886/full

用語解説

  • 注1 ミトコンドリアDNA
     細胞内に多数存在する細胞内小器官、ミトコンドリアの中にある短いDNA。母親からのみ子に遺伝情報が伝達(母性遺伝)され、一つの細胞内に多数存在する。コピー数が多いため、PCR増幅による遺伝情報取得が核DNAと比較して容易である。ただし、遺伝子の情報量は核DNAよりも少ない。
  • 注2 核DNA
     父親と母親の両方から子に遺伝情報が伝達(両性遺伝)され、一つの細胞に一つのみ存在する。ミトコンドリアDNAと比べると、細胞中の存在量はかなり少ないものの、核DNAは変異性が高く、両性遺伝するため、より詳細な遺伝情報取得が可能となる。
  • 注3 PCR(Polymerase Chain Reaction、ポリメラーゼ連鎖反応)
     酵素反応を用いてDNAを増幅させる方法。質や量が不十分なDNAでも、PCRを利用することで特定の塩基配列・遺伝子領域を飛躍的に増幅することができ、遺伝解析に資する遺伝情報取得が可能となる。
  • 注4 マイクロサテライトマーカー
     ゲノム上にみられる、1~数塩基の短い配列の繰り返し数の多型を評価する遺伝マーカー。多型性が高く遺伝子型で個体や個人を特定できることから、集団遺伝学、分子生態学、科学捜査などにも用いられる。種特異的なプライマーでPCR増幅させるため、DNA中に他生物由来のDNAが混入していても、対象種のDNAのみを増幅できる。また、PCR増幅産物のサイズが小さいため、断片化した質の低いDNAでもPCR増幅できる可能性が高い。