発表者
加藤 麦彦(東京大学 大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 博士課程2年)
奥村 俊樹(東京大学 大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 博士課程:研究当時)
坪  泰宏(立命館大学情報理工学部情報理工学科 准教授)
本多 淳也(京都大学大学院情報学研究科 システム科学専攻 准教授)
杉山 将(東京大学 大学院新領域創成科学研究科 複雑理工学専攻 教授/東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)連携研究者兼任)
東原 和成(東京大学 大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授/東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)連携研究者兼任)
岡本 雅子(東京大学 大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 特任准教授)

発表のポイント

  • 嗅覚誘発脳波(注1)に対してデコーディング(注2)・表象類似度解析(注3)を適用することにより、ヒトの嗅覚情報処理が脳内のどこで、いつ行われているのかを明らかにしました。
  • 匂いの不快さが、質や快さより早く処理されることなど、知覚の個別の要素がそれぞれ異なる時空間的な処理を経て生じることを示しました。
  • 嗅覚誘発脳波から高い時間分解能で匂いをデコーディングすることに成功した初めての研究です。他の実験条件や被験者群において同様の研究が蓄積していけば、嗅覚の神経基盤への理解がより一層深まること、嗅覚との関連が知られている疾患の理解への足掛かりとなることなどが期待されます。

発表概要

 ヒトは匂いを嗅いで、その快さや質(花らしい、果物らしい、など)を速やかに感じます。匂いの元は化学物質ですので、脳において化学物質の情報が知覚に変換されていると考えられます。しかしその情報処理が、匂いを嗅いだ後どのようなタイムスケールで、どの脳領域で行われているのかという時空間ダイナミクスはこれまで明らかにされていませんでした。東京大学大学院農学生命科学研究科の岡本雅子特任准教授らの研究グループは、10種類の多様な匂いを嗅いでいるときの脳波を計測し、機械学習により脳活動から知覚や刺激を読み出すデコーディングと呼ばれる技術を用いることで、脳が匂い呈示後100ミリ秒という早い時間から匂いの情報を表象していることを見出しました。また、脳活動と知覚の相関を解析することで、匂いの不快さの神経表象が刺激呈示後300ミリ秒から生じるのに対し、快さや質の表象はそれより約200ミリ秒遅れて生じることを明らかにしました。さらに、初期の情報処理は一次嗅覚野と呼ばれる限局した脳領域で行われている一方、遅い潜時においては、記憶・意味情報・感情などの処理に関わる広範な脳領域がダイナミックに知覚の表象に関与していることが示唆されました。本研究はデコーディングや表象類似度解析を高い時間分解能で嗅覚誘発脳波に適用することに成功した初の例で、これらの解析手法が今後の嗅覚研究の進展に貢献することが期待されます。

発表内容

図1:嗅覚誘発脳波を特徴量とした高時間分解能のデコーディング
A 全ての匂いペアに対して、それぞれの匂いを呈示しているときの脳波データを特徴量として、どちらの匂いが呈示されていたかを予測するデコーディングを行いました。
B 匂いペア間で平均したデコーディング正解率の経時変化。匂い呈示後100ミリ秒から900ミリ秒にかけて有意な予測成績が得られました。
C 匂い呈示後300ミリ秒と600ミリ秒における、各匂いペアの正解率。潜時によって正解率のパターンが変化していることが分かりました。 (拡大画像↗)


2:表象類似度解析による、匂い知覚の脳内表象の経時変化の解明
A 表象類似度解析の模式図。デコーディング正解率の高さを脳活動における匂い間の距離関係と解釈し、各タイムポイントにおける距離関係と、主観評定に基づく匂いの距離関係の相関を計算しました。この相関が有意に0より高ければ、その時間の脳活動が主観知覚を表象していたことが示唆されます。
B 快さ・不快さ・質の評定を用いた表象類似度解析の結果。不快さは匂い呈示後300ミリ秒、快さと質は500ミリ秒後から有意な相関がみられました。(拡大画像↗)


図3:信号源推定による、嗅覚情報処理に関与する脳領域の同定
表象類似度解析により、頭表での匂い間の距離関係と、各信号源の活動に基づく距離関係の相関を算出しました。早い潜時では主に一次嗅覚野(上)、遅い潜時では嗅覚野に加え、記憶や感情に関わる複数の脳領域(下)が嗅覚情報処理に関与していることが分かりました。(拡大画像↗)

 嗅覚は、受容体がヒトでは約400種も存在すること、その受容体で受容された情報が、感覚入力のゲーティングの役割を果たす視床を経由せずに一次感覚野に入力されることなど、視聴覚などの他の感覚にはないユニークな特徴をもつ感覚です。また、神経変性疾患の初期症状として嗅覚能力の低下や匂いに対する脳活動の変化が起こることが指摘されており、嗅覚入力から知覚が生じる過程の神経基盤を解明することは重要な課題です。これまで、脳活動を高い空間解像度で計測できる機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた複数の研究により、梨状皮質に代表される一次嗅覚野、前頭眼窩野・海馬・島皮質など複数の領域からなる二次嗅覚野を始めとする様々な脳領域が、嗅覚知覚の表象に関与することが報告されてきました。ただし、fMRIは時間分解能が低いため、それらの神経活動が時間的にいつ生じていたのかを明らかにすることはできません。また、匂いは快さ・不快さや、花らしさ/果物らしさといった質など、様々な知覚を引き起こします。しかし、これらの知覚の個別の要素が、時間的にどのような順序で生じているのかはよくわかっていませんでした。一方、脳波や脳磁図は高い時間分解能で脳活動を計測することができます。近年発展が目覚ましい機械学習などの計算機科学の解析法を適用すれば、脳における嗅覚情報処理の時空間的ダイナミクスを明らかにできる可能性があります。
 そこで本研究では、高密度脳波計測(注4)を用い、22人の一般被験者に対して10種類の匂いを嗅いでいるときの脳活動を計測しました。匂いは、果物様の快いものから不快な腐敗臭まで、多様な知覚をもたらすものを使用しました。それに加え、全ての被験者に対して匂いの快さ・不快さ・質の主観評定を実施しました。匂いの質は、多数の記述子(花らしい/果物らしいなど)への当てはまり度合いの評定として評価しました。
 まず、脳がいつ匂いの情報処理を行っているのかを明らかにするため、教師あり機械学習により、各タイムポイントの脳波データから嗅いでいた匂い物質を判別するデコーディングモデルを構築しました(図1A)。その結果、匂い呈示後100–900ミリ秒において偶然よりも有意に高い正解率が得られました(図1B, C)。このことから、匂い呈示後100ミリ秒という早い潜時から、脳波によって、脳における匂いの情報を読み解けることが示唆されました。次に、デコーディング正解率から脳における匂いの表象の匂い間での違いを推定し、匂い知覚と関連付ける、表象類似度解析と呼ばれる解析を行った結果、匂いの不快さの神経表象は匂い呈示後300ミリ秒から生じるのに対し、快さや質の表象はそれより遅い500ミリ秒で生じ始めることが分かりました(図2)。不快さが他の知覚に先行して処理されていることは、天敵や有害物に素早く反応して回避行動をとるという動物の生存戦略を反映している可能性が考えられます。一方で、デコーディングの正解率が高かった早い潜時においては、表象類似度解析では相関が見られないか、弱い相関しかありませんでした。このことから、知覚と直接結びつかない初期の匂い情報が、その後数百ミリ秒の処理を経て主観的な知覚に変換されていることが推察されました。さらに、信号源推定(注5)により各タイムポイントにおいて、どの脳領域が嗅覚情報処理に関与していたのかを解析した結果、初期の匂い情報は一次嗅覚野に限局して表象されているのに対し、後期の知覚の表象は、記憶に関わる海馬傍回、意味情報の処理に関わる前頭眼窩野、感情に関わる島皮質や帯状皮質など、広範な脳領域で生じていることが示唆されました(図3)。
 本研究は、嗅覚誘発脳波のデコーディングにより高い時間分解能で脳活動から匂い情報を読み出すことに初めて成功し、一次嗅覚野で表象された初期の匂い情報が、その後数百ミリ秒の間に広範な脳領域に広がり、知覚の表象が生じる過程を示しました。今後、他の実験条件や被験者群において同様の解析を導入することで、嗅覚の神経基盤への理解がより深まることが期待されます。

発表雑誌

雑誌名
「Proceedings of the National Academy of Sciences(PNAS)」(オンライン版:5月19日)
論文タイトル
Spatiotemporal dynamics of odor representations in the human brain revealed by EEG decoding
著者
Mugihiko Kato, Toshiki Okumura, Yasuhiro Tsubo, Junya Honda, Masashi Sugiyama, Kazushige Touhara* and Masako Okamoto*
DOI番号
10.1073/pnas.2114966119
論文URL
https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.2114966119

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
特任准教授 岡本 雅子(おかもと まさこ)
Tel:03-5841-8043
E-mail:a-okmoto<アット>g.ecc.u-tokyo.ac.jp  <アット>を@に変えてください。

東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
教授 東原 和成(とうはら かずしげ)
Tel:03-5841-5109
Fax:03-5841-8024
E-mail:ktouhara<アット>g.ecc.u-tokyo.ac.jp  <アット>を@に変えてください。
研究室URL:http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/

用語解説

  • 注1 嗅覚誘発脳波
     嗅覚刺激を受容した時に生じる脳波。特別な装置を用いて匂いを短時間呈示し、その際の脳波の変化を計測することで評価する。耳朶付近を基準電極とした場合、嗅覚刺激呈示後、300~500ミリ秒にN1と呼ばれる負の電位変化、500~700ミリ秒後および700~1300ミリ秒後に、それぞれP2、P3と呼ばれる正の電位変化を示すことが知られている。嗅覚誘発脳波は生じる電位変化が小さいため、何度も繰り返して計測し、多数の試行における脳波を平均することで、信号対雑音比を高めた上で評価するのが一般的である。しかし、本研究では機械学習を用いることにより、1試行ずつの脳波を対象とした解析に成功した。
  • 注2 デコーディング
     機械学習などを用いて、多変量の脳活動データから呈示されていた刺激や知覚、認知状態を予測する手法(図1)。脳活動から情報が読み出せることは、その脳活動が情報をコードしていることを示唆するため、近年認知神経科学の研究で広く用いられている。例えば、fMRIで計測した視覚野の脳活動から、見ていた画像や動画が再構成できることなどが報告されている。本研究は、嗅覚誘発脳波から高い時間分解能で匂いをデコーディングすることに成功した初の例である。
  • 注3 表象類似度解析 (Representational similarity analysis析)
     脳においてコードされている情報の内容を、脳活動に基づく刺激間の距離構造と、刺激特性に基づく刺激間の距離構造を比較することによって推定する手法。本研究では、脳活動に基づく距離構造を、各タイムポイントにおける匂いペア間のデコーディング正解率から、刺激特性に基づく距離構造を、匂いの快さ・不快さ・質の評定値から算出した(図2)。脳活動に基づく距離構造と、知覚に基づく距離構造が有意に正の相関を示すタイムポイントでは、その時の脳活動が、解析対象となった知覚をコードしていたことが示唆される。
  • 注4 高密度脳波計
     頭表上に64か所~256か所程度の多数の電極を装着して脳波を計測する手法。脳波とは、頭皮上に装着した電極において、脳の神経活動に起因する電位変化の総和を計測する手法で、少数の電極でも計測が可能である。しかし、高密度計測を行うことで、頭表上での電位の分布の空間的なパターンをより詳細に分析することができる、脳における信号源をより精密に推定できるなどの利点がある。このため、脳活動の空間的な情報を解析したい場合に、高密度脳波計測が用いられている
  • 注5 信号源推定
     頭表で観測された脳波が、脳のどの領域の活動によるものかを推定する解析手法。頭表の電極で計測される電位の大きさは、信号源と電極の間の距離だけではなく、脳内で発生した電流と電極との角度、電極に到達するまでの頭蓋骨や脳脊髄液の厚さなど多数の要因の影響を受けるため、脳波の信号源は一義的に計算することができない。そこで、頭部組織の構成やその伝導率などをモデル化することで、信号源を推定する手法が多数開発されてきた。本研究では、とりわけ脳の深部の信号源推定にも適すとされるsLORETA (standardized Low Resolution Brain Electromagnetic Tomography)法を用いた推定を行った。