アフリカ豚熱ウイルスのゲノムとトランスクリプトーム解析 ――新しいワクチンと治療法の探索:強毒株と弱毒株の比較研究――
発表のポイント
- アフリカ豚熱ウイルス(ASFV)の異なる株のゲノムとトランスクリプトームデータを収集し、強毒株と弱毒株の比較解析から、ASFVの毒力に関連する遺伝子を複数特定しました。
- ASFVは約190個もの遺伝子を持ち、その多くの機能は依然として不明です。本研究で新たに特定された毒力関連遺伝子の情報はワクチンや治療薬の開発に有用です。
- 本研究の成果はASFVに関する知識を深め、新たなワクチンや治療薬の開発の基盤となり、有効なASFV対策を介して食糧安全保障および生態系の保護に貢献します。
ASFV株間のゲノムとトランスクリプトーム比較解析の流れ
発表概要
東京大学大学院農学生命科学研究科の永田宏次教授、陸鵬助教、伊藤英晃特任研究員らの研究グループは、農研機構動物衛生研究所の國保健浩領域長らの研究グループと共同で、アフリカ豚熱ウイルス(ASFV)の異なる株間のゲノム(注1)とトランスクリプトーム(注2)の比較解析を行い、強毒株にのみ存在する遺伝子や強毒株でのみ高発現する遺伝子を複数特定しました。
ASFVの遺伝子型I、II、X間における遺伝子構成および各遺伝子の転写量の違いを詳細に比較調査し、強毒株と弱毒株の間に見られる違いに注目しました。この結果、ASFVの毒力に関連するいくつかのOpen Reading Frame(ORF:遺伝子)(注3)が特定され、新たなワクチンや治療薬を開発する際に標的となる遺伝子候補を絞り込むことに成功しました。
ASFVは真核生物や原核生物(真正細菌、古細菌)とは異なる巨大核質DNAウイルス群(NCLDV)と呼ばれる生物群に属し、ゲノム上に約190ものORFが存在するといった複雑な遺伝子構成を有するウイルスであり、真核生物や原核生物とは遺伝的な相同性が見られないため、その翻訳産物(タンパク質)の多くは依然として機能未解明で、ワクチン開発が困難を極めています。2007年以降の本病の世界的まん延に伴い、甚大な被害を被ったベトナム国では今年7月までに2種類の弱毒生ワクチン製品の国内使用が許可されていますが、毒力の本態が未解明であることに加えて、増殖過程の反復を通じた病原性復帰の可能性等が十分に検討されたとは言えず、毒力に関連する遺伝子(やタンパク質)の特定を通じて合理的で安全性に優れたワクチンや治療法の開発が急務と考えられています。今回、毒力と関連付けられた遺伝子群を特定したことにより、その発現や遺伝子産物の働きを阻害するワクチンや治療法の開発戦略の策定に繋がると期待されます。
この研究は、畜産業におけるアフリカ豚熱の拡散を制御し、食糧安全保障と生物多様性の保護に貢献します。
発表内容
〈研究の背景〉
アフリカ豚熱(African Swine Fever = ASF、旧名:アフリカ豚コレラ)は、アフリカ豚熱ウイルス(ASF Virus = ASFV)が豚やイノシシに感染することによって生じる発熱や全身の出血性病変を特徴とする致死率の高い伝染病です。現在世界的に流行しているASFVは概ね強毒性(急性)で、致死率はほぼ100%です。特殊な軟ダニによる媒介、感染畜等との直接的な接触により感染が拡大します。有効なワクチンや治療法は世界的にも未開発で、本病が発生した場合には畜産業への影響が甚大なことから、我が国の家畜伝染病予防法においては「家畜伝染病」に法定されており、患畜・疑似患畜の速やかな届出と殺処分が義務付けられています。我が国は本病の清浄国であり、これまで本病の発生は確認されておりませんが、アフリカでは常在的に、また中欧、ロシア及びアジアでは広く流行が確認されているため、今後とも海外からの侵入に対する警戒を怠ることなく、本病の発生予防に努めることが重要です。なお、アフリカ豚熱は豚やイノシシの病気であり、人に感染することはありません。また、現在、我が国で発生している豚熱(Classical Swine Fever = CSF、旧名:豚コレラ)は豚熱ウイルス(CSFV)を原因とする疾病であり、本病とは異なる感染症です。
ASFVのゲノムには約190個ものORFが存在し、かつその翻訳産物のアミノ酸配列が独特で機能の予測ができないものが多く、このことがASFVに対するワクチン開発を困難なものにしています。
これまで、以下の3つのワクチン候補についてベトナム国内で有効性ならびに安全性評価が行われ、今年2023年7月24日までに、下記2(ワクチン名:NAVET-ASFVAC)および1(ワクチン名:AVAC ASF LIVE)の製品がASFに対する世界初の商用ワクチンとして、ベトナム国内での使用が承認されています。
- 1.ASFV-G-ΔMGF(MGF505-1R, MGF360-12L, MGF360-13L, MGF360-14L, MGF505-2R, MGF505-3Rの6個の遺伝子を欠失した弱毒生ワクチン)
- 2.ASFV-G-ΔI177L(I177L遺伝子を欠失した弱毒生ワクチン)
- 3.ASFV-G-ΔI177LΔLVR(I177L, MGF360-6L, MGF300-1L, MGF300-2R, MGF300-4L, MGF360-8L, MGF360-9L, MGF360-10L遺伝子を欠失した弱毒生ワクチン)
しかし、ASFVの遺伝的多様性やゲノム配列・ウイルス粒子構造の複雑さを考慮すると、より高度で広範囲の有効性を示す防御策が必要です。そのため我々の研究グループでは、ASFVの異なる株間のゲノムならびにトランスクリプトームを詳細に比較解析することにより、新しいワクチンと治療法の開発に役立つ新規の標的ORFの特定に取り組みました。
〈研究の内容〉
異なるASFV株のゲノムおよびトランスクリプトームデータを収集し、バイオインフォマティクス研究(注4)から、遺伝子型(注5)I、II、およびX間の比較解析を行いました(図1)。
図1:異なるASFV株(BA71V、GRG2007、HG2018、HLJ2018)における遺伝子発現量比較
赤は遺伝子発現が高いことを、青は遺伝子発現が低いことを示します。この結果をもとに、強毒株において発現量が高い遺伝子が特定されました。
強毒株と弱毒株間のゲノムとトランスクリプトームの違いを網羅的に分析し、6個の感染初期発現遺伝子、13個の感染後期発現遺伝子、6個の短いペプチド遺伝子がASFVの毒力と関連する可能性のある遺伝子群として特定されました。さらに、14種類のMulti Gene Family (MGF)遺伝子(注6)も今後、調査対象とすべきORFであることが示唆されました。
AlphaFold2を使用してこれらの遺伝子群の翻訳産物(タンパク質)の立体構造および相互作用を予測しました(図2、3)。AlphaFold2は、タンパク質の立体構造を高精度で予測するAIベースのプログラムであり、これにより、タンパク質分子の立体構造と分子間相互作用をより深く理解することが可能となります。
図2:初期遺伝子6個(A)、後期遺伝子13個(B)、短い遺伝子6個(C)、MGF 14個(D)の相互作用スコア
赤が濃いほど、2つの遺伝子産物(タンパク質)が相互作用する可能性が高いと予測されました。
図3:AlphaFold2により分子間相互作用すると予測されたタンパク質複合体の構造モデル
相互作用スコアが0.7以上のものを分子間相互作用する可能性が高いとみなしています。
〈今後の展望〉
本研究は、ASFVの様々な株に関する知見を提供し、今後のASF研究の基盤となります。今後、ASFに対する新たなワクチンや治療法の開発が進むことにより、ASFの拡散を効果的に制御することが可能になり、食糧安全保障と生物多様性の保護への貢献が期待されます。
発表者
陸 鵬(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 助教)
周 嘉嶠(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 修士課程)
韋 思博(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 博士課程)
髙田 幸之介(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 修士課程:当時)
升谷 颯(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 修士課程:当時)
奥田 傑(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 准教授)
岡本 研(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 特任研究員)
鈴木 道生(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 教授)
北村 知也(国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 動物衛生研究部門 研究員)
舛甚 賢太郎(国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 動物衛生研究部門 上級研究員)
國保 健浩(国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 動物衛生研究部門 越境性家畜感染症研究領域長)
伊藤 英晃(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 特任研究員)
永田 宏次(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻 教授)
発表雑誌
- 雑誌
- Computational and Structural Biotechnology Journal
- 題名
- Comparative genomic and transcriptomic analyses of African swine fever virus strains
- 著者
- Peng Lu, Jiaqiao Zhou, Sibo Wei, Konosuke Takada, Hayato Masutani, Suguru Okuda, Ken Okamoto, Michio Suzuki, Tomoya Kitamura, Kentaro Masujin, Takehiro Kokuho, Hideaki Itoh, Koji Nagata*
- DOI
- doi.org/10.1016/j.csbj.2023.08.028
- URL
- https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2001037023003045
研究助成
本研究は、農林水産省の「安全な農畜水産物安定供給のための包括的レギュラトリーサイエンス研究推進委託事業(官民・国際連携による ASF ワクチン開発の加速化)」(JPJ008617.20319736)により実施されました。
用語解説
- 注1 ゲノム
ゲノムは、生物の全ての遺伝情報を含むDNAまたはRNAの完全なセットを指す用語。ASFVのゲノムは2本鎖DNAで構成されます。 - 注2 トランスクリプトーム
トランスクリプトームは、特定の時点で細胞または組織において発現される全RNA分子の集合を指す用語。トランスクリプトーム解析により、遺伝子発現のパターンを知ることができます。 - 注3 Open Reading Frame(ORF)
遺伝子の一部で、タンパク質をコードする領域を指す用語。ORFは、開始コドン(通常はAUG)から始まり、終止コドン(UAA、UAG、またはUGA)で終わります。 - 注4 バイオインフォマティクス
バイオインフォマティクスは、生物学的データの収集、解析、解釈に関連する情報技術と数学的手法を利用する学問分野を表す用語。これには、遺伝子配列、タンパク質構造、生物学的ネットワークの解析などが含まれます。 - 注5 遺伝子型
遺伝子型(ジェノタイプ)は、個体の遺伝的構成を指す用語です。遺伝子型は、個体の形質(フェノタイプ)を決定する基本的な要因であり、遺伝学的研究や疾患のリスク評価において重要な概念です。ASFVの場合は、主要カプシドタンパク質p72をコードしているB646L遺伝子の塩基配列によって遺伝子型の分類が行われ、少なくとも24の遺伝子型が知られています。 - 注6 Multi Gene Family (MGF)
MGFは、遺伝子産物が類似したアミノ酸配列を持つ複数の遺伝子群を指す用語であり、構成される遺伝子のクラスターである。他種生物との塩基配列の相同性が低く、構造や機能は未解明である。
問い合わせ先
東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻食品生物構造学研究室 教授
永田 宏次(ながた こうじ)
Tel:03-5841-1117 E-mail:aknagata[アット]mail.ecc.u-tokyo.ac.jp
※[アット]を@に変えてください。