発表のポイント

  • 全米の家庭犬に拡がったA/H3N8犬インフルエンザウイルスは、幸い人への感染が起きることなく終息しましたが、再来する懸念があります。
  • 犬インフルエンザウイルスを人呼吸器細胞で継代すると、ウイルス表面糖蛋白質に変異が入り、増殖性が大きく上昇しました。
  • 伴侶犬は、新たなインフルエンザパンデミックを介在するかもしれません。

発表概要

 2004年に米国・フロリダでA/H3N8馬インフルエンザウイルスが近くに飼われていた競走犬(グレイハウンド)に伝播し、呼吸器症状から全身性疾患を呈し、多くが死亡しました。その後、全米の家庭犬に拡大しH3N8犬インフルエンザとして定着しました。幸い人への感染が起きることなく終息しましたが、H3N8馬インフルエンザは世界的に散発しており、同様な犬へのウイルス伝播が起こる可能性があります。今回、この犬ウイルスが人の呼吸器で効率よく増殖するようになるためには、どういった変異が必要であるのかを調べました(図1)。犬ウイルスを人呼吸器培養細胞で連続継代したところ、ウイルス表面の糖タンパク質HAとNA(注1)などに複数の変異が導入されました。そこで、リバースジェネティクス法(注2)で各変異ウイルスを作出し調べたところ、HA膜融合活性のpH要求性とHA-NA機能バランスを人呼吸器細胞環境に適合させる変異が、その増殖性の獲得に重要であることがわかりました。今回見つかった変異は、今後のウイルスモニタリングなどに貢献することが期待されます。

発表内容

 馬から伝播したA/H3N8犬インフルエンザウイルスは、一時全米の家庭犬に広がりましたが、現在は終息しています。今後、同様な動物種間伝播が起きる懸念から、犬ウイルスが飼い主などに感染し人から人へと伝播するようになる潜在性を考察しておくことは、新たなインフルエンザパンデミック(注3)の発生を阻止するために重要な知見になります。そこで、犬への伝播初期に分離されたH3N8ウイルス(A/canine/NE/52-14/06:ウイスコンシン大Kawaoka博士より分与)を用いて、人呼吸器由来A549細胞への馴化実験を行いました。連続継代の結果、増殖性が10,000倍以上に上昇した3種類の変異ウイルスの回収に成功しました(図2)。それらのゲノム全塩基配列を決定し親株と比較したところ、PB2-K738R、PA-G58S、HA1-G158E、HA1-E218G、HA2-K82E、HA2-R163K、NP-N473D、NA-S18L、M1-V180A、M1-R210KおよびM2-F47Lの変異が見られました。次に、リバースジェネティクス法で各変異を単独であるいは複数もつ変異ウイルスを作出し、それらのA549細胞における増殖性を調べました。その結果、ウイルス表面の糖タンパク質のHA2-K82E、HA2-R163KおよびNA-S18L変異がウイルスの増殖性の上昇に強く関与していることがわかりました(図2)。このうちHA2変異部位は、立体構造解析(図3)によりHAストーク領域に位置しており、HA膜融合活性のpH要求性を変化させる変異であることがわかりました(図4)。一方、NA-S18L変異は、NAのウイルス粒子への取込みに影響する膜貫通領域に位置しており、粒子上のNA量の変化が推測されます。そこで、変異ウイルスを用いた赤血球リリース解析を行ったところ、HA-NA機能バランス(注4)の変化が観察されました。これらの成績から、HA膜融合活性のpH要求性とHA-NA機能バランスを人呼吸器細胞に適合させる変異が、H3N8犬インフルエンザウイルスが人呼吸器細胞に馴化し、効率的な増殖性を獲得するメカニズムとして重要であることがわかりました。 現在、世界中の養鶏業に甚大な被害を及ぼしているA/H5亜型の高病原性鳥インフルエンザウイルスが、次のパンデミックをひき起こす第一候補であるのは疑いありませんが、生物学的環境が大きく異なる鳥から人へ直接的にウイルスが伝播する可能性は低く、中間宿主として働く何らかの哺乳動物が想定されます。その観点では、すでに哺乳動物(犬)に定着した犬インフルエンザウイルスが人に感染しパンデミックに発展する可能性の方が高いと推測されます。さらに、犬は馬ウイルスだけでなく鳥や人ウイルスにも感染することや、人との濃厚な接触機会を考えると、犬がパンデミック発生の中間宿主になる可能性は否定できません。近年では、姿を消したH3N8犬インフルエンザに代わって、鳥ウイルスを起源とするH3N2犬インフルエンザが北米と東アジア(日本は清浄国)で流行しており、犬ウイルスを起源とするパンデミックの発生が懸念されます。今回同定された変異は、パンデミックのサーベイランス予測を担うウイルスモニタリングに貢献することが期待されます。

発表者

関根 渉(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 助教)
神木春彦(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 博士課程院生:当時)
石田大歩(麻布大学獣医学部獣医学科 助教)
松郷宙倫(京都大学医生物学研究所 助教)
大平浩輔(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 博士課程院生)
黎 凱欣(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 博士課程院生)
片山美沙(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 博士課程院生)
上間亜希子(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 学振RPD研究員)
村上 晋(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 准教授)
堀本泰介(東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 教授)

論文情報

雑誌
Scientific Reports
題名
Adaptation potential of H3N8 canine influenza virus in human respiratory cells
著者
Wataru Sekine, Haruhiko Kamiki, Hiroho Ishida, Hiromichi Matsugo, Kosuke Ohira, Kaixin Li, Misa Katayama, Akiko Takenaka-Uema, Shin Murakami, Taisuke Horimoto
DOI
10.1038/s41598-024-69509-x
URL
https://www.nature.com/articles/s41598-024-69509-x

研究助成

本研究は、JSPS科学研究費補助金(基盤A:18H03971;基盤B:24K01924)の助成により実施されました。

用語解説

  • 注1 HAとNA
    A型インフルエンザウイルスのエンベロープ糖タンパク質には、赤血球凝集素(hemagglutinin: HA)とノイラミニダーゼ(neuraminidase: NA)がある。HAは、ウイルスの細胞への感染に必要なシアル酸レセプターへの結合とエンドソーム膜との膜融合活性を担う。一方、細胞表面のシアル酸をNAが消化することでウイルスが細胞から遊離する。
  • 注2 リバースジェネティクス法
    A型インフルエンザウイルスのゲノムRNA分節(PB2, PB1, PA, HA, NP, NA, M, NS分節)を合成する8種類とゲノムの転写・複製を担うタンパク質(PB2, PB1, PA, NP)を発現する4種類の計12種類のプラスミドを、同時に培養細胞に導入することでウイルスを人工的に作出する方法。ゲノムRNA転写プラスミドに変異を導入することで、任意の変異ウイルスを作出できる。
  • 注3 インフルエンザパンデミック
    A型インフルエンザウイルスの世界的大流行のこと。過去にはスペイン風邪(H1N1ウイルス)、アジア風邪(H2N2)、香港風邪(H3N2)、そして2019年の豚由来パンデミック(H1N1pdm)がある。人が防御抗体をもたないHAをもつ犬ウイルスが効率よく人集団に感染・伝播する変異を獲得すると、新たなパンデミックの発生が危惧される。
  • 注4 HA-NA機能バランス
    HAの細胞レセプターへの特異性・結合力とNAの細胞レセプター消化能のバランスは、ウイルスの増殖性、細胞特異性や宿主特異性を制御する重要な因子の一つである。

問い合わせ先

東京大学大学院農学生命科学研究科 獣医学専攻 獣医微生物学研究室
助教 関根 渉(せきね わたる)
E-mail: w-sekine[at]g.ecc.u-tokyo.ac.jp
Tel: 03-5841-5398
Fax: 03-5841-8184
教授 堀本 泰介(ほりもと たいすけ)
Email: taihorimoto[アット]g.ecc.u-tokyo.ac.jp
※上記の[at]は@に置き換えてください。

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