匂いを嗅いで0.3秒後の脳活動が、匂いを嗅ぎ分ける能力に寄与
――匂い分子の特徴を捉える早期脳活動の役割を特定――
発表のポイント
◆匂いを嗅いだ直後(約0.3秒)に脳内で生じるシータ波帯域の活動が、匂い分子の化学的特徴を符号化しており、その符号化の精度が匂いを嗅ぎ分ける能力に関与することを明らかにしました。
◆匂い提示からこれほど早い時点での脳内符号化が、ヒトの嗅覚能力に寄与することを示したのは、本研究が初めてです。
◆匂いを嗅いだ直後の脳活動パターンを指標として活用することで、嗅覚障害の理解や、嗅覚機能を高めるトレーニング法の開発などへの応用が期待されます。
概要
匂いは化学分子であり、脳内情報処理の初期段階ではその化学構造が神経活動として符号化されると考えられています。しかし、この初期符号化が嗅覚能力にどう関与するかは不明でした。
東京大学大学院農学生命科学研究科の岡本雅子准教授らは、高密度脳波(EEG)を用いて、ヒトが9種類の匂いを嗅いだときの脳活動を解析しました。その結果、匂い提示後約80〜640ミリ秒に現れるシータ波(約4Hz)が匂い分子の物理化学的特徴を符号化し、その精度が高い人ほど匂い識別能力が優れていることが分かりました。また、正答した試行でシータ波のデコーディング精度が高く、行動レベルの識別にも関与していることが示されました。
この研究により、匂いを嗅いだ直後の脳活動が匂い分子の特徴を符号化し、その精度が嗅ぎ分け能力を支えることが明らかになりました。今後は、この脳活動パターンを指標として、嗅覚能力の理解やトレーニング法の開発への応用が期待されます。
発表内容
私たちは日常生活で、匂いから多様な情報を瞬時に読み取っています。花の香りで季節を感じたり、焦げ臭で危険を察知できるのは、脳が匂い分子の化学的性質をすばやく解釈しているためです。匂いは化学分子であり、脳内情報処理の初期段階ではその化学構造が神経活動として符号化されていると考えられます。しかし、ヒトにおける初期嗅覚符号化の実態や、それが嗅覚能力・行動に与える影響は十分に解明されていません。
本研究では、匂いを嗅いでから数百ミリ秒以内に脳がどのような情報を符号化し、それが嗅覚能力とどう関係するかを検討しました。19〜28歳の健常成人32名に9種類の匂いを呈示し、高密度脳波計(注1)を用いて嗅覚誘発脳波(注2)を記録しました。得られた脳波を時間・周波数解析し、デコーディング解析(注3)と表象類似度解析(注4)により、脳活動がどの時間帯・周波数帯でどの匂い情報を符号化するかを調べました。さらに嗅覚検査(閾値・識別・同定)と質問紙調査も実施しました。
解析の結果、匂い提示後約80~640ミリ秒に現れるシータ波(注5)の活動が、匂い分子の物理化学的特徴を符号化していることが分かりました。さらに、匂い提示後約300ミリ秒後におけるシータ波での符号化の精度が高い人ほど、嗅覚検査で測定した匂い識別能力(注6)が優れていました。別の実験では、2種類の匂いを識別する課題を行い、正答した試行ではシータ波のデコーディング精度が高いことが明らかになりました。つまり、シータ波活動は、匂いの識別に寄与していました。一方、約720ミリ秒以降に出現するデルタ波(注5)は、匂いの快・不快を符号化し、その精度が高い人ほど、日常生活で匂いを楽しむ傾向がありました。
これらの結果から、匂い提示直後のシータ波活動が分子の物理化学的特徴を符号化し、その情報が匂い識別能力を支えていることが明らかになりました。一方、より遅れて生じるデルタ波活動は、匂いに対する快不快や感情的反応に関係していました。すなわち、嗅覚系では時間の経過とともに、低次の物理化学的特徴の符号化から主観的快・不快の符号化へと情報が段階的に変換され、匂いに基づく判断や行動の異なる側面に寄与していると考えられます。今後は、匂い提示直後の脳活動パターンを指標として活用することで、嗅覚障害の理解や嗅覚機能を高めるトレーニング法の開発につなげていける可能性があります。
なお、本研究は東京大学倫理審査専門委員会承認のもと実施しました。
発表者・研究者等情報
加藤 麦彦(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 博士課程:研究当時)
奥村 俊樹(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 博士課程:研究当時)
東原 和成(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 教授/東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)連携研究者兼任)
岡本 雅子(東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻准教授)
論文情報
雑誌名:The Journal of Neuroscience(2025年掲載)
論文タイトル:Behavioral relevance of early neural coding of low-level odor features in humans
著者:Mugihiko Kato, Toshiki Okumura, Kazushige Touhara, and Masako Okamoto*
DOI:10.1523/JNEUROSCI.0203-25.2025
URL:https://www.jneurosci.org/lookup/doi/10.1523/JNEUROSCI.0203-25.2025
研究助成
本研究は、日本学術振興会特別研究員奨励費(23KJ0377, M.K.)、科研費(21H05808, 23H04335, 25H00998, M.O.)、およびJST未来社会創造事業(JPMJMI17DC, JPMJMI19D1, K.T.)の支援を受けて実施されました。
用語解説
(注1)高密度脳波計
頭表上に64か所~256か所程度の多数の電極を装着して脳波を計測する手法。脳波とは、頭皮上に装着した電極において、脳の神経活動に起因する電位変化の総和を計測する手法で、少数の電極でも計測が可能である。しかし、高密度計測を行うことで、頭表上での電位の分布の空間的なパターンをより詳細に分析することができる、脳における信号源をより精密に推定できるなどの利点がある。このため、脳活動の空間的な情報を解析したい場合に、高密度脳波計測が用いられている。
(注2)嗅覚誘発脳波
嗅覚刺激を受容した時に生じる脳波。特別な装置を用いて匂いを短時間呈示し、その際の脳波の変化を計測することで評価する。耳朶付近を基準電極とした場合、嗅覚刺激呈示後、300~500ミリ秒にN1と呼ばれる負の電位変化、500~700ミリ秒後および700~1300ミリ秒後に、それぞれP2、P3と呼ばれる正の電位変化を示すことが知られている。嗅覚誘発脳波は生じる電位変化が小さいため、何度も繰り返して計測し、多数の試行における脳波を平均することで、信号対雑音比を高めた上で評価するのが一般的である。しかし、本研究では機械学習を用いることにより、1試行ずつの脳波を対象とした解析に成功した。
(注3)デコーディング解析
機械学習などを用いて、多変量の脳活動データから呈示されていた刺激や知覚、認知状態を予測する手法。脳活動から情報が読み出せることは、その脳活動に情報が符号化されていることを示唆するため、近年認知神経科学の研究で広く用いられている。
(注4)表象類似度解析 (Representational similarity analysis)
脳において符号化されている情報の内容を、脳活動に基づく刺激間の距離構造と、刺激特性に基づく刺激間の距離構造を比較することによって推定する手法。本研究では、脳活動に基づく距離構造を、各タイムポイントにおける匂いペア間のデコーディング正解率から、刺激特性に基づく距離構造を、匂いの快さ・不快さ・質の評定値から算出した。脳活動に基づく距離構造と、知覚に基づく距離構造が有意に正の相関を示すタイムポイントでは、その時の脳活動が、解析対象となった知覚を符号化していたことが示唆される。
(注5)シータ波/デルタ波
脳波の周波数帯域の一種。シータ波(約4~7Hz)は記憶処理や嗅覚処理への関与が知られており、デルタ波(約1~3Hz)は脳の広範な情報統合に関与するとされている。本研究では、それぞれが異なる匂い情報(分子特徴・快不快)を担うことが示された。
(注6)匂い識別能力(odor discrimination ability)
複数の匂いを嗅ぎ分ける能力。嗅覚検査では、2つの匂いサンプルが同じか異なるかを判断させたり、3つのサンプルの中から一つだけ異なる匂いを選ばせるなどの方法で評価される。得られた正答率をもとに、個人の嗅覚機能の一側面として数値化され、嗅覚の能力を示す指標のひとつとされている。
問合せ先
<研究内容について>
東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命化学専攻 生物化学研究室
准教授 岡本 雅子 (おかもと まさこ)
Tel:03-5841-8043
E-mail: a-okmoto<アット>g.ecc.u-tokyo.ac.jp
<機関窓口>
東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部
事務部 総務課総務チーム広報情報担当
TEL:03-5841-5484 FAX:03-5841-5028
E-mail:koho.a<アット>gs.mail.u-tokyo.ac.jp
※<アット>を@に変えてください


